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  映像研究

風の強い水曜日

 
・201806271130。戻らない時間を当たり前のようにして生活している。届くかもしれない本を待ちながらフランス語の復習をしたり、色々している。批判的であることの重要性。批判とは否定ではないということをどうしたら伝えられるか。「私はあなたのそのそれとは違う考えを持っています」と声に出す言葉にすることには、相手への信頼と敬意のようなことが必要であるということ。そう考えたときしかし、見ず知らずのあるいは深く関係を持っていない他者との議論とはなんと難しいことかとわかる。色々な場所で同時多発的にコミュニケーションそれ自体が問い直されアップデートされるように思えることは決して偶然ではないのだろう。それを無条件で肯定するのではなくかつ時代の流れであるからと安易に相対的に捉えるのではなくそれ自体を議論の一部として理解すること、あるいは理解しようとすること。学校という場所を卒業してみても(自分はずっと学校という場所に居つづけているけれども)倫理の授業も道徳の授業も続いている。それはそれ自体が修行のようなことでもある。実践という修行。


・人間は高度な計算機である。という言葉に触れて、その言説に違和感を感じるということはどういうことなのだろう。人間は計算機として何を計算しているのか。・・・などとそこに違和感を挟むのは文学や詩のマチエールとして言葉を捉える限られた分野の思考でしかないのか。人間の神経を分析してみて、その神経の構造と近しい構造をネットワークと人は呼んでいるのか。確か小沢健二という人が『うさぎ!』という文章の中で「サッカーをやっている人たちに『あれはサッカーゲームの本物をやっているのだ』と言う」エピソード/作り話を挙げて、そのことの奇妙さを述べていたけれども、そのような発言は至る所に聴くことができる。「人間は計算機である」のうちには「人間はそれほど高度な知能を持っている」という意味が含まれているのか。コンピュータと同じくらいの量と速度を持っていると。「生命」の「計算」は疑わしい。「そのように言ってみた」ことさえ、別の、違う次元の考えをすぐさま隣に置いてみないことには、まるで本当のことのように理解されてしまう。生命は何も計算していないという考えについて。