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  映像研究

歯医者、散髪、業務

・202012102132。3日の休暇を経て業務へ。思えば去年はもう少し長く早めの冬休み的な時間があった。「東京ドキュメンタリー映画祭」を観に行ったりしていた。近所の空き地で写真を撮影していた。そして図書館にいた。今年は年間スケジュールが少し後ろにずれているからそうした時間は消えた。そうして気づけば12月も1/3が消えた。消えた時間を想起する12月。忘年月間。それを忘れるためにはまずは思い出さなくてはいけない。掘り起こされた記憶はそっと炎に投げる(お焚き上げ)。2020年のことを思い出すときにまっさきに浮かぶのは4月から5月の自分の家のデスクの光景だった。

 

・前からずっと読んでみたかった若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を文庫になったタイミングで購入して今日一日移動しながら読む。直接のきっかけはSNSのタイムラインで目に入った、小沢健二『うさぎ!』との近しさ、という情報によるものだったけれども、同時に業務で小論文の課題のテキストとして学生に読んでもらうのに良いのではないかという目論見もあった。その目論見は外れつつも、紀行文として、面白く読む(『うさぎ!』との近しさ、に関しては、当然と言えば当然だがかなり違う印象を持った、しかしそういえば10年くらい前に頻繁に遊んでいた小沢健二が好きな友人が「最近は小沢くんではなく若林にはまっている」とよく言っていたことを考えるにつけ、何か深層において関係があるのかもしれないと思う)。

 

・年齢が近いせいもあるのだろうか、それまで生活してきた地理的な条件によるのか、例えばその文章に書かれる「新自由主義」という言葉の感じ、その言葉と自身との距離に腑に落ちる感覚を得る。ニュースの言葉でも論文の言葉でもなく、自分の違和感を探り当てようとしたところに、ごろんとその概念の言葉があった。その言葉を通して、自分の価値観や友人たちとのコミュニケーションを反省してみる。そういう試みは生活している只中から生み出された思考という感じする。その切実さと「(必然的な)中途半端さ」に惹かれた。

 

・そして書かれた文章の「味」にも新鮮な感じを持つ。自身の立っている場所が、普通の言葉でありながら異常に丁寧に描かれていると感じた。家族との、とりわけ父親との関係や出来事についても、書けることを、書ける言葉で、書ける範囲で、可能な限り嘘がなく書いていると感じる。書くことでわかっていく、書くことで納得していく、という感じもある。「率直に書かれている」と感じるが、それは一番難しいことなのだという感じがする。大袈裟にプレゼンテーションしている感じもないが、勝手に言葉を投げている感じもしない。凄い文章だと思う。

 

・「あとがき」として書かれていたのは2020年の春の東京の風景だった。その文章を帰宅する京王線で読みながら、再び自分の2020年も振り返ることになる。2020年の3月後半の京王線の風景をまだ覚えている。