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  映像研究

「帰還」

 
・201712020920。中央図書館にはじめて開館と同時に入った。土曜日なこともあって列ができていて自動ドアが開くと同時にみんな勉強する机に向かう。その様子はちょっと良かった。それで自分は月曜日に提出する件の論文の提出が迫っているので作業。もうまる丸一日作業できる日はないけれども、ともかくできることをやる。とりあえず書ききってダメだった部分とかダメだった計画の立て方についてはあとで反省しようと思う。反省の準備。


・という日々のなかで、どうしてもすぐに読みたかった宇野維正という人の『小沢健二の帰還』という本を読む。面白かった。同時にこれが書かれて悔しい思い(?)をした人も多いだろうと思う。密かに大切にしていたこの10数年の記憶、記録が明らかにされることで、それが何か別のものに変わってしまうようなナイーヴな気持ちがあるし、そもそも小沢健二という人の10数年に注目していた人は大体ナイーヴだ。多分2005年から『うさぎ!』を読んできた人には、自分が考えたり生活することの深いところにそれがある。


・けれども『小沢健二の帰還』という本自体はとても面白かったし、書き手の強い気持ちを感じて良かった。かつ絶妙なバランス感覚だとも思う。色々な方向から見ているからこそ、描き出すことができるもの。対象の方法に即した表現だと思った。自分にとっては文章を書くことがどういうことか考えるきっかけになり、同時に『うさぎ!』のなかのもっとも強く心を惹かれた部分を思い出すきっかけになった。


トゥラルパンは、灰色のつくり出す世界は、眼が疲れる世界だと思っていました。


あらゆることが、あらゆる場所に書いてあって、書いてあることを読もうとすると、その下にまた小さい文字で何か書いてあって、裏をめくるとさらに小さい文字で、何かびっしり書いてある。ふう、疲れる、と空を見上げようとすると、そこにも大きな文字で、スニーカーかハンバーガー屋か銀行の名前が書いてある。そんな世界でした。


トゥラルパンは、眼というのは、「外から入って来た光が網膜に映像を映す器官」などではなくて、何かにふれる、何かにさわる、触手のようなものだと思っていました。


何かにふれたり、さわったりするだけではなくて、それは、何かに向かって祈ることもできる、特別な器官でした。人はその眼で、空に祈ったり、女神の像に祈ったり、大きな木に祈ったりして、生きてきました。


そんなすばらしい器官が、灰色のつくり出す世界では、「新しい商品をおぼえさせられる穴」くらいのものに成り下がっている。この女の子は、そんなことを考えていました。


・この部分が今の自分が考えていることにどれだけ影響を与えて、また力をもらったか、計り知れない。この刺すような強い言葉の後ろにどれほどの怒りがあるのかと想像したことを思い出す。「見ることは祈ることでもある」ということを20年くらい考えてきて、まだ全然まとめられないし、報告することもできない。でももしかすると、今考えていることもその報告の一つになるかもしれない。そう思わないと論文を書くなんていう作業をまともにやることはできない。極まって中断。