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  映像研究

もう既に持っているもの

 
・数日前に書いた「1000円で1年間洋服をリースする」件に関連してしつこく。


・例えばこんな光景がある。子どもがお気に入りの洋服を汚してしまって泣いている。母親は「新しいものを買ってあげるから」「同じものを探してあげるから」と言う。しかし子どもは泣きやむことはない。「これ」がよいのだ。「自分が着ている」そのものがよいのだ。こういうときになんと言えばいいだろう、とても不思議な気持ちになる。既製品である物が壊れたり、あるいはなくしたりすることを本当に悲しいと思う、そういう感覚はいったいどこから来てどこへ消えて(あるいは消えずにどこかに漂っている?)いくのか。そして今、そういった視線であらゆる日用品や建物や乗り物や・・・を見てみるとあらためてそれらがどこかで誰かの手によって作られた、しかし「物」であることに気がついてはっとする。


・例えばこんな状況があった。Yahoo!オークションでスニーカーを買った。しかしそのスニーカーをぼくは持っている。モデルもカラーもサイズも全く同じ物を既に持っているのだ。でも、買った。そのスニーカーはとてもお気に入りなのである。荷物が届いて箱を開けてスニーカーを取り出す。そしてふとそのスニーカーを既に持っている同じスニーカーの横に並べた時、不思議な気持ちになる。「自分はコレクターではないから、この(新しい方の)スニーカーを履くだろう。しかし、例えばまた同じスニーカーがYahoo!オークションに出品されたら、自分はそのスニーカーを落札するに違いないのだ……。」しばらく自分と目の前の物がどういう関係にあるのかと考えて、あるいはこれもまた自然なかたちでの「消費」の向こう側にある行為なのではないかとぼんやり考える。


・ああ。あとあれだ。「大人買い」っていうのは「消費」に関してかなりふざけてるので、そこには何かあるかもしれない。(つづく)


・そんなこんなで(?)今読んでいる本
 『所有と国家のゆくえ (NHKブックス)稲葉振一郎立岩真也 NHKブックス