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  映像研究

梅雨の極、映像の問題

・202007080843。風が強い日がしばらく続いている。それが理由かどうかわからないけれどもベランダ菜園のモロヘイヤは全滅してしまった。気温はさして高くないが風が強く吹き降りが酷いから窓を開けられず(開けたら降ってきてすぐ閉める)、部屋に熱がこもる。梅雨とはこのような季節だっただろうかと思うのは、この時期に週の半分ほど家にいることがないからで、6月後半から7月中旬くらいまでは、たいてい「夏の準備」と言いながら毎日出掛けている。あるいは蒸し暑さを避けて図書館で作業している。梅雨の自宅作業の新鮮さ。

 

・意識的にyoutubeを見るようにしている2020年。近くて遠い映像のかつてと現在を考える。ゲーム実況という映像のジャンルが理解できずにいたが、そういえば子供の頃テレビゲームをする友人を隣で見るという経験は普通にあった。そのことを考えたのは『pen』という雑誌経由でyoutubeで『光石研の東京古着日和』という映像を見たからで、おそらく「他人が買い物をしているところを見て面白いのか」という問題提起が可能だが、迷いつつ服を選び購入する友人を隣で見るという経験は普通に面白い。人が何かを夢中でしている様子を隣で見ることは大抵面白いのだろうか。『光石研の東京古着日和』に関しては『孤独のグルメ』の古着版と言ってしまえばそれで何かわかった気になるのだけれども、一方でそれが光石研という本人であるということが奇妙だ。ドラマのトーンで古着屋という空間を見せられることも謎だ。あるいは「東京」という語に感じるひっかかりは、最近同僚がやっと見てリアクションをくれた『東京女子図鑑』と通じるものもある。光石研という人が光石研という名前のままでありながら、過剰にコードに縛られた人物を、過剰なコードで演出された映像によって、演じる。たとえば自分はその映像を見て、鏡に映る自分を見るように、ひとつひとつの振る舞いを反省するだろう。だからこの映像こそが本来の意味での『東京男子図鑑』なのではないかという気づき。ゲーム実況から遠いところに来た。

 

・情報番組とフィクションを自由に行き来すること。映像に映るすべてが現実でありながら映像に映るすべてが虚構でもある。これは何か。

 


光石研の東京古着日和 VOL.3 アメカジ、渋カジ、からのイタカジ?