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  映像研究

20世紀の3学期、3学期のテーマ

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・正月が過ぎて「1月」ということを思うときに、毎年「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」という慣用句(?)を思い出す。思い出して口にしないまでも頭の中で浮かばせて、こうして書いてみる。その一瞬で過ぎる刹那という感じが好ましい。「すぐにきっと暖かくなる」という信頼も重ねてみる。子供の頃であれば「1月、2月、3月」は即ち「3学期」ということになるが、自分は子供の頃からこの「3学期」というものが好きだった。一見派手な(?)「1学期」「2学期」の行事の最中では見えてこなかった事が見える、というか「ばれる」ようにも思えた。真面目そうに思えていたクラスメートの意外な一面が見えることもあってそれは「答え合わせ」のようでもあった。つねに充実していたわけでもない、というか全然不毛な時期も多かった「学生」と呼ばれるサイクルの中の「3学期」は少しだけ、やわらかく、あたたかく回想される。

 

・中学3年の「3学期」は幸運にも早々に受験が終わり、あとは高校に入るための準備という気持ちでいた。洋服を買い(私服だから選んだ)、話を合わせるあるいは合わせないために(話が合う人をフィルタリングするためにこそ)文化的な何かを買ったりしていたのではなかったか。その「3学期」を回想したときに、部屋でかかっていたのは小沢健二犬は吠えるがキャラバンは進む』とスティービー・ワンダーのベスト盤ではなかったか。新しい音楽の「元ネタ」を探して、自分が生きていない時間の音楽を聴くことも面白かった。新しいものも古いものも皆一様に「新しい」と思っていたから、自分が新しい環境に向かうこととも相まって、触れるものが全て黄金に思えた。しかしそれは「触れる」という行為それ自体がどんなものでも黄金に変えていたのだと、今ならばわかる。「目に映るすべてのことはメッセージ」ということでもあった。

 

・自分の黄金の記憶とは別に、音楽はいつでも輝きを放っていた。スティービー・ワンダーの『My Cherie Amour』のことを思い出して聴いている。