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  映像研究

・202305101912。帰宅して一息ついて書いてみる日記。

 

・先月の人間ドックで「著しい視力の低下」を指摘されたことから眼科へ。結果的に「眼」と「見ること」について感じ、考えた一日だった。

 

・「眼科の診察および検査では、眼の奥を診るために散瞳(瞳孔を開く)の検査薬を点眼して、瞳を開きます。同検査薬をさした患者さんは薬が効いている間、お車の運転と読み書きなどの近くを見る作業ができなくなります(略)」と書かれた紙を渡されて、既に興味深い。その説明を読みやや大袈裟なのではと思ったが、結果的に指示の通りに6~8時間程度、視覚は変調した。「見ること」はこのように、ある意味で簡単に別の仕方になる。

 

・備忘録。何も知らずに車で病院に行き、説明を受け診察が終わったのが10:30。待ち時間が長くても大丈夫なように大量の本をリュックに背負って行ったが読むことが難しい。食堂で昼食して近くの公園を散歩し数時間を潰す可能性も考えたが、サングラスなしには移動も難しい。そのため薄目でよろよろバスに乗り一旦帰宅して昼食。室内でもサングラスをかけて過ごす。映像を見ることも本を読むことも文章を書くことも禁じられると手持ち無沙汰になる。ポッドキャストを聴きつつ、辛うじて業務のメールを返すなどして夕方。そうして再び病院へ行き運転して本当に帰宅。これが今日だった。

 

・数日前に『人体解剖の基本がわかる事典』という本を購入して真っ先に「眼」のページを熟読したが、イラストと文字による知識を超えて、体感として眼の構造が少し分かったように思う貴重な経験だった。瞳孔は絞り、水晶体はレンズ、網膜はスクリーンあるいはフィルム。

 

・薬が効いてくるにつれて、生成りに近い白いシャツがどんどん漂白されるように感じる。オリーブグリーンのパンツも、黒い革靴も、黒の乗っていないデッサンのように見えた。窓の外の緑は発光するように、最も明るい部分は白く飛んでしまっていると感じる。太陽の下を歩けば、瞳孔は開いたままでも瞼が眼を守ろうとするのか、見える光景が断片的になる。『リトアニアへの旅の追憶』の映像に似ていた。

 

・普段、見ることは基本的によろこびとともにあり、自分の身体の外の存在に手を伸ばし、両手で抱えもち、ぐっと体幹に引き寄せるような行為として捉えている。一方で、条件次第では、見ることが、見えるということが、身体的な苦痛となり得る、ということを知ることができた。「刺すような光」は慣用句だが、確かに体感でもある。光がオーバーであること。

 

・あらためて、写真を撮ることを試したいと思う。