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  映像研究

筋肉について

・202304222015。一日の終わりに書いておく。

 

・気づけば眩しく暑く涼しい季節のなかにいた。引き続き部屋を片づける。片づけに伴い、物に触れる。映像の光を浴びることを避けるように、文字を読むことも遠ざけるために、さまざまに物質を扱う。スエードの靴を洗う。味噌を味噌樽からホーローの容器に移して冷蔵庫に仕舞う、など。

 

・午後は市民体育館のトレーニングルームへ。歩いて数分の市民体育館の中にあるその場所は370円で最大3時間使うことができるようだった。初回だからインストラクターの方に器械の使い方を教えていただき、恐る恐る動かしてみる。2時間運動してストレッチして終わる。最大3時間使えてもその時間まるまるからだを動かすわけではなかった。カラオケ的な施設と間違えていた。

 

・筋肉について考えている。筋肉について考えることが殆どなかった。10代にバスケットボールをしていた時には多少筋肉を意識して生活していたが、その後は基本的に「無いもの」あるいは「自分の関心や資質とは関係のないもの」と考えてきたふしがある。それは自分の身体に「在るもの」にもかかわらず。意識的でなくともそれを遠ざけてきたのは、筋肉、という語が持つある種の象徴的な意味におそれを感じていたからだろうか。

 

・この数年論文を書くことを生活の軸にしていて、この生活が一区切りついたならば、身体を鍛えたいと考えていた。あるいは「鍛えたい」とも少しニュアンスが違う。言語について実践していることと同じように、自分の身体を捉えて育てることはできないかと考えていた。からだを動かすことを生活の軸にすること。そのように生活をつくりかえることはできないだろうかと。感覚し思考する頭脳の中枢を、地上に持ち上げてはたらかせているのも自分の身体であり筋肉であるはずだった。「知覚」と書くためには、知覚について自分のからだが知らなければならない。試し深め続けたい。

 

・体育館を出て、いつも散歩する公園の様子を見ながら帰宅する。大抵散歩は朝だから午後の陽射しを見ることを新鮮に感じる。たらの木が群生している箇所を調べる。誰か採ったようだ。日陰は空気がひんやりとする。このようにして、自分の身体のことと、外界のこと、土や植物のことを、一つのこととして考えることができるだろうか。

 

・帰宅して引き続き片づけ。YouTubeを開いたならば、「Demonstration with Ryuichi Sakamoto」というイベントの中継があり、それを視聴しながら夕食をつくる。神宮外苑の木の伐採の問題の集会だった。コムアイさん、永井玲衣さんのスピーチ、寺尾紗穂さんの歌を聴きながら、木について少し思う。

 

・木を見るためにもう一度山を歩いてみたいと思う。背景としててなく、山を構成する一部としてでなく、見つめる対象として。それは頂上を目指す登山とは少し違うアクティヴィティになるのだろうか。中断して。

 

 

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