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  映像研究

何もしないことの困難、その他の困難

・考えていたことを思い出しながら書いてみる。思い出すことの困難がある。言葉にすることの困難も。春ないし4月の困難について。

 

・ずっと緊張が続いている週の前半に「何もしない」を試みてその困難を感じる週の半ば。「何もしない」あるいは「休む」とは何か。外出を控えて家で変な体勢でノートPCに向かい合うことも目および全身にダメージを与えているとするならば、では何をすれば(しなければ)良いのか。たとえばさっと散歩に出掛けて公園でたらの芽を探すのが良さそう。そのように考えながらも、マッサージに行き、目的なく本屋を歩き、自己流のストレッチ、部屋の片付けなどしていると時間が過ぎる。

 

・どれほど意識していても、「ゆっくり食べる」ことが難しいことに対する驚き。

 

・食べるものや飲むもの、着るものの選択の困難。平時は選択が自然に為されているが、それが難しい。全然快に通じないむしろ苦痛を呼ぶ選択をしている。行為してみて間違ったと気づくことも多い。自分の身体あるいは欲求と対話できていないと知る。

 

・生活の慣性に気づく。それは惰性とは少し違う。あるいは喋りすぎた一日の後半に整理運動のように飲食して眠りを準備することはよく知っているが、もう少し長いスパンでのスローダウンの必要性を感じている。今はその時期。この数年間で、書く時間以外の行為を圧縮するような生活が完全に身についている。それを解除して新しい態勢を生きるための移行期。頭ではそのように理解しているが、ではそれはどうすれば良いのか。あるいは書くことを仕事にする人はこのような態勢が自然なのか。自分には難しい。

 

・数ヶ月ぶりに立ち寄った古本屋(元ささま)で、モーリス・エルゾーグ監修『山岳 la montagne』に焦点が合い購入する。3冊セットの重い本。重い重いと思いながらリュックに詰める。でもそれも必要。目線が響くような本は購入したほうが良い。少し前ならばこのような本は手に取らなかった。本と目が合い、本に手を伸ばし、ぱらぱらすることも、新しい態勢の、その流れの、源流の一つになることを知っている。

 

・本にあり目に触れる、言葉、イメージ、それら自体が湧水のようで、小さな一滴でも、それがのちに流れになる。

 

・「都市と芸術の応答体」という活動について、ずっと気になっていたがこの間少し調べて動画を視聴した。「弱い登山(文学)」という話がとても興味深く、すぐに幸田文『崩れ』を購入することも。

 

・考える道筋は一つではない。たとえば「場所」ということについて、または「風景」ということについて、今後どのように考えられるだろうか。考える基点/起点に自分の生活があるような態勢はいかに可能か。自分の存在と場所の結びつきを感じたい。いま、そんなことばかり考えてる。

 

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