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  映像研究

ノート

・202303161843。2日ぶりの業務から帰宅する京王線で書いても良い。

 

・書き記しておきたい日記らしい事象は多くあるが、それを束ねる自分が散漫である最近。その都度短期的または中期的に何らかの狙いを定めて生活していたが、そのような意識の枠組みから自由になった。あるいは自由を選んでいる。持続する態勢はあるが、それはあまりに瑣末な関心の集積のようである。クローゼットから久しぶりに取り出したシャツの質感や、友人との会話の中に沸くニュアンスや、テーブルに並ぶ食材の変化など。そうした諸々に注意が向かいそれにより気持ちが活気付くのは、新しい季節のせいか。それとも新しい生活のせいか。

 

・たとえば、比較的オーソドックスな形式のコンサートに行き、演目が終わりアンコールを期待して拍手をする。ぱちぱちと叩くリズムが周囲の人たちと一体になって全体がリズムになる。それはしばらく持続するがしかし必ず崩れる。少しずつ前後にずれ始めて、波が砕けるように混沌が生じる。再びリズムが生まれるかもしれない。しかし一定のリズムと混沌は繰り返す。そのリズムが崩れる現象に似たことが、自分の生活に起きているのだと思った。

 

・生活を効率的にすること、効率的にすることで、書く作業の時間と集中する力を生み出すことを実践した約二年だった。けれどもそれは終わった。終わったけれども、部分的に「効率的にする」意識は持続している。生活の瑣末な事象を選択してなるべく短時間で、場合によっては同時並行で行うことを試みる。しかしその効率化は、作業には向かわない。というか、向かうべき作業を設定していない。だから、効率化自体が目的であるように、さっと起きたり、素早く食べたり、空いた時間にストレッチしたりするが、それはそれでしかない。

 

・そしてまた、なるべく多くの情報を摂取することを目指している。これまでの書く作業が、ごく限定された情報を深く考えることを目指していたから、そうではなく、逆に、浅く広く、またはこれまで自分が関心を持たなかった情報を摂取したいと思う。思うというかそうしている。そうして先週までは、たとえば現代日本のアニメーションについての本を手当たり次第に読んでみた。今週は憑かれたようにファッションYouTuberの動画を見続けている。知らないことに触れることは基本的に面白い。それらは自分の核となる関心の裾野のように広がるかもしれない。

 

昨日は散髪に行き、今日はカイロプラクティックへ行く。散髪は1ヶ月半から2ヶ月に一度、カイロプラクティックは1ヶ月に一度だから、サイクルが重なることがある。あるいは、意識的にそのサイクルを重ね合わせることで、積極的に自分を新しくしたいと思う時期がある。ことに気づいた。しかし食後のカイロプラクティックは危険。背中を強く押されてうっとなり反省。生活の効率化が自己目的化したならば、このような事態さえ起こる。自分のからだのことを知るための貴重な時間が、充分に生かしきれなかった例。

 

・文章を書く、ということをしていない。このように日記を書くことを除いては。日記は目的を持って書く行為とは異なる。あるいはスマートフォンでメッセージを送ることは文章を書くことではない。普通に生活をしていて、何かの感想や、その感想から引き出される考えを、文章として書くことなどない、ということにも気がついた。書くべきことは多くあるが、今後それをどのような態勢で、どのような生活の中で実践するのかは、いまだに分からない。分からない地点にいる。