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  映像研究

式典の日の記録

・202303242000。友人の店のカウンターで前菜のサラダを食べながら、息をついて、締め慣れないネクタイを緩めて、書きはじめても良い。

 

・今日は学位授与式なるイベントの日。業務の期間の合間に、何とか出席できて良かった。今月のはじめからうっすらと気にしていて、朝から不思議な緊張をしていた。そういえば、自分は、学部生のときも、修士のときも、それぞれに理由があり、式典それ自体には出席できなかった。本格的に式典というものに出席するのは、そういえば、高校の卒業式以来かもしれないと思い出す。これはそうした諸々の事情による緊張だろうか。先日慌てて購入したスーツを着て、少しずつ慣れてきた革靴を履いて、いつものリュックを背負って出掛ける。

 

・式典とは丸ごと形式の極みだが、その形式は、しかし、人間の営みの、ある意味での「普遍」のために設計されているのではないかと考えた。自分はかつては、そのような式典の想定する「普遍」にともかく違和感を感じることが殆どだったが、今は少し違うことを考えてもいる。むしろ人間の営みの「普遍」とは、どのようなものだろうかと考えている。式典というものの底に流れる、人間の営みに、歴史に、多少なりとも耳を傾けることができるようになったということか。

 

・式典の前後に、お世話になった方々と言葉を交わす。この生の残された「おめでとう」の言葉を貰い尽くしたのではないかと思うほどに、声を掛けていただく。声を掛けていただくと、自分も緩むから、堰き止められていたものが流れ出すごとく、思っていたことが、思っていたと知らなかったことが、言葉となる。形式的な感謝を超えて、目の前の人に触れようとするように、言葉が生まれる。その言葉は、時間が経って振り返ったならば、少し恥ずかしいものかもしれない。しかしそれが、言葉の本来的な役割とも思う。言い過ぎるくらいの意味を持つ言葉が、ちょうど感情に適う。

 

・あらためて、2011年の初夏に、学生になってみることを思いついて良かったと、そう思う。このように時々は、過去の自分の判断を讃えても良い。正史としてではなく幸運として。力を取り戻すために。そして、何か新しい動きを思いつくためには、その下地となる生活があったことを思う。だからこれから先も、新しい動きを招き入れるためにこそ、いつでも生活を耕すことが必要と思う。

 

・午後から雨が降る今日。雨粒が地面に染み込む毎に生命が湧き立つ。そのことが感じられるように思った。特にこの季節には、「南風は/やがて春に山をのぼり/土を濡らす/暖かな雨になる」という歌を、時々歌ってみる。できるならば、何度も繰り返したい。できるならば、合唱したい。