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  映像研究

時の長さ

・10年前のこの日付を思い出す木曜日。2013年10月19日に友人たちに手伝って貰って披露宴およびパーティーを開催したことを思い出す。文字通りの特別なイベントを、できる限り良い形で実現したかった。

 

・あの場に集まってくれた人たちが一堂に会することは二度とない。生を終えた人もいる。10年という時の長さをはかってみれば、「二度とない」ということがある、ことを身をもって知りながら生きていることに気がつく。身をもって知るとは、変わりながら生き続けていくことであると考えている今。

 

・時を長さとしても想像しながら、しかし今はただこの今だけ、と思う。この普遍の不思議をめぐりながら、たとえば自分はイメージを手掛かりに考えてもいる。生を終えた地点に立つことはできないけれども、ふいにこの今を眩しく感じることがある。そのようないわば「視座」があることを感じたのは、たとえば木皿泉の創造した物語による。物語は映像になり得る。

 

・眩しさをイメージとして受け取る。たとえばInstagramに流れるイメージは、そのすべてが瑣末な広告だとも思うが、一方でそのすべてが生の結晶の如く煌めいているようも思える。たぶん、そうした両極端にある感じ方を薄めるようにして、しかし忘れることなく、人々はイメージを投げながら生きている。そのような今、について考えてもいる。

 

・ちょうど10年前に購入した10年メモは途絶えてしまって別の形で書いている。日記という形式の面白さを充分に感じながら、別の言葉の書き方も学びたい。論文と日記の間。(記念)写真も可能な限り多く撮りたい。

 

・朝から母校の大学へ行き、現在の学生の人たちの作品を鑑賞する午前。いくつかの作品から考えることがあった。その後せっかくの中央線だから三鷹のカーニバルに寄りマスカットベリーA研究の対象となるワインを購入しつつ職場へ。15:00から21:00までが一瞬で消えた。日記。