&

  映像研究

続・家について

・後から書いておく二月最後の日曜日の日記。たらふく飲食してからだが重い朝。ぬるい気候だから春眠という語に相応しく眠い。今日も休暇だった。遅い朝食のあとに外出する。

 

・一昨日に続いて友人の新居建設の手伝いへ。一日空いただけで壁塗りの作業は次の工程へ進んでいた。シーラーと呼ばれる液体を塗り、石膏ボードの繋ぎ目やビス部分を下地材で埋める。普段意識することのない「壁」が具体的な素材と仕事によって、そのように存在していることを思う。夢中で作業している時には思わないけれども、ふとした時に思い出すかもしれない。

 

・夕方に作業を終えて、合流した友人とともに飲食する。「じゃあ一杯だけ」と言ってはじまり終電を失う、特に春によく陥るパターンだった。5時間ほど話していたことになる。でもお陰で(?)自分の書く作業と業務の合間にひとりでぼやっと考えていたさまざまな事柄を他の人に投げてみることができて良かった。

 

・質量のある作品や質量のないイメージ(映像)をつくる友人たちの思考に触れると、自分の考えを確かめたり進めたりすることができる。つくる人は見えるものの向こうに何かを想像しているから、話す言葉にもイメージ(連想)が必要になる。たとえば住まう空間やその空間に存在する物について、イメージを介して考えを交換することはいつでも面白い。

 

・建築をする友人が、場所や空間を施主の雰囲気に近づけることがあるが、場所や空間が既に施主の雰囲気と近しいこともある、と話していたことが特に印象的だった。確かにそうなのだろうけれども、その際に施主の雰囲気とは何か。人は固有の雰囲気を持っていること。雰囲気について、どこまでも解像度をあげて感じたり考えたりすることができる。家の建築とは、その雰囲気を一旦固定することでもあるのか。

 

・あるいは、むしろ「このようになりたい」という意志が住宅となり、その住宅に相応しい者になろうとすることが人の生を規定するのか。家の方を進めたり、人の方が追いついて追い越したりする中で、どうしてもその住宅を心地よいと思えなくなった時には、服が似合わなくなるように住まいを取り替えることもあり得るのか。そして、そうならば、前に誰かの住まいだった場所や空間をつくりなおすとは、どういうことなのか。