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  映像研究

五感

・202203252009。昨日は午前中に書店へ。昼から夜まで業務。今日は一転して一日家で作業。春の業務の集中授業期間の前の最後の一日だった。Wordを開き書き進めることは叶わなかったけれども今できることをするという精神。読書、資料の整理、データ保存など。

 

・俳句と写真の関係について考えている。あるいは、俳句と写真の関係について考えた人間が約100年前に書いた文章を読んでいる。外界から何かを受け取りそれを象徴的に表現するところに通じる部分があると言えるのだろうか。論文には引用しないかもしれないが、心に留めた部分を抜き書きしてみる。

 

で現在の表現派は、あらゆるものから解放された特性の表現としての創造、肯定、制作をとおしての独立、自由でありたいとした所で、眼に見えないもの、耳に聞こえないもの、口に出せないものの表現は出来ない。どんなに解放された、どんなに自由なものでも人間の望みである限り人間の五感を通じての事であり、人間にゆるされた自由しか与えられない。此不自由さが実は自由の姿である。従って自由は絶対なものだといい得る。人間は人間としての自由がある。猿の如く木登りし、馬の如く走れないのは不自由だからではなく、猿、馬でないからなのだ。人間にのみゆるされた自由の天地は狭いが、その天地は何ものにも替えがたいもので、これがある為に人間の独自性がハッキリするしその局せきした姿が何ものにもおかされない人間最高の表現そのものなのである。人間の尊さも、人間の存在理由もそこに在る。物心未分以前の事実なのだ。独立、自由、創造、肯定の基点である。