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  映像研究

写真を見る

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・Alfred StieglitzのThe Key Setが届く。写真家と呼ばれる人が生きている時間に写した写真、そのすべてではないにしろ、時系列に沿って並べられた写真を眺める経験は特別な時間になる。写真を見て思うことの一つは、写真はいつも絶対的なものであると同時に、何かに届きそうで届かない。たとえば音楽のような表現に、ダンスのような表現に、彫刻のような表現に、自分の経験の基点を置いている人にとっては、写真の経験とは貧弱なものと捉えられるのではないか。想像に過ぎないけれども、そのように思う。ともあれしかし自分は、たとえばこの10年で、この3年で、この1年で、写真を見ることが変化しつつあるという感じを得ている。情報としてではなく、文脈によるのでもなく、表現としてでもなく、写真を見ることが少しずつ自分に近しいことになってきていると感じる。去年の春以降は、展示空間に足を運ぶことが難しいこともあり、額装された写真の、その単独のイメージのありように惹かれることが強かったが、ここしばらくはたとえば写真集の、ページを捲ると現れるイメージにも惹きつけられるようになった。連続していながら、単独でもある、写真集における写真のあり方にあらためて出会った、という感じがある。出会い直したというべきか。しかし写真集に何かを感じて手にするようになって以来、何度目かの意識の更新のように思う。デイヴィッド・ホックニーはかつて「一瞬のうちに撮られた一枚の写真を、一枚の絵画のように時間をかけて眺めることはない、ゆえに自分は時間をかけて眺められるタブローを制作するために写真によるコラージュを行う」というような意味のことを述べていたと記憶している。それはホックニーの実感であると同時に、論理として正しいように思えるし、実際にその実験によって興味深いコラージュによるイメージの創造がなされた。しかしそのこととはまた別に、「一瞬のうちに撮られた一枚の写真を、一枚の絵画のように時間をかけて眺めること」をしても良い。その行為が反時代的-不自然な習慣であろうとも、むしろ訓練をすることによって「一瞬のうちに撮られた一枚の写真を、一枚の絵画のように時間をかけて眺めること」が得意になっていくのだとしたら、それはきっと他でもない自分自身がその行為を必要としていたのだ。中断。