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  映像研究

声と文字

・後から書いておく記録。完全に業務の一日。とはいえ朝のエクセルシオールで30分だけ自分の論文の作業。9:00前にタイムカードを押して22:00まで。13時間が光の速さで消えた。その時間の中で面談をして、書類を作り、写真を撮り、会議と打ち合わせをして、イベントの準備と運営など。加えて報告と連絡。「ここまでのいきさつ」を傾聴する時間も。おそらくは一年で最高にマルチタスクな一日が終わった。

 

・気づけばイベントで人を前にしてマイクを持って話すことに伴う多少の高揚と反省にも慣れた。年齢もあるのだろうか。恥じらいを失って今の自分の発声や言葉の選択になっているという感じがする。基本的に人の前で話すことが「嫌いではない」。しかしどうして自分は「嫌いではない」のだろうかと考えてみる。そもそも子供の頃は好きで好きで仕方なく、10代から20代には全くできなくなり、30代をかけて少しずつ開拓したあるいは取り戻したと感じている。そしてこの数年はいつもこうした機会の毎に「また少しだけ『話すこと』がどういうことなのかわかった」と感じる。あるいは「感じながら話している」。

 

・基本的に人の前で話すことが「嫌いではない」人もいれば、本当に嫌いな人もいる。あるいは「嫌い」と思っている人もいる。「嫌い」と思いたい人もいる。「個性」が表れる。しかし考えたことを声に出すことは、やはり、つねに、誰でも、感動的なことだと思う。あえて「感動」と言ってみて。たとえば「作品」などと言わなくとも、人が話をしている様子を見て聴くことだけで満たされる気持ちがある。それできっと自分は業務においても自分以外の人が話をする様子を観察している。マイクの持ち方や目線の置き方や話す速度に違いがあることが面白く、大抵すっかり魅了されて、年齢が上でも下でも事後に「話している感じが良かったです」と伝えて相手に奇妙な感じを与えることになる。

 

・小さなまたは大きな出会いと別れの季節だから手紙を貰うことがある。最近手で紙に文字を書くことの凄みを感じている。逆になぜ今まで気が付かなかったのだろうか。あるいは気づいていても意識しなかったのだろうか。声に出すことに必ず感動があるように、書かれた文字にはいつでも必ず感動があることを。多くの手紙には「ありがとうございました」と書いてあるが、手紙という媒体自体が、過去の出来事の感謝を伝える性質を持っているのかもしれない。それは物語や儀礼と関係し、それらの起源とも関係するだろうか。手紙を書いた人の存在を強く感じる。時に踊るように、あるいは叫ぶように。