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  映像研究

雨のたびに風景が変わる備忘録

 
・5月も半ばに差しかかる。恐ろしいことに先週の記憶がほとんどないのは「雨が降ったならば家で読書をしよう」と思った結果、雨の日が多かったからだ。だから家で読書をしていたかと言えばしかしなかなか本を読む気にもなれなかった。それは雨が降っていたからかもしれない。コンピュータを使って色々な情報を得る。そのほとんどが良い情報とは思えない情報である。「悪いことが起こりました」か「悪いことが起こったかもしれません」か「悪いことが起こり続けているかもしれません」というような種類の様々な情報を新しく知る。そして仕方がないことではあるけれども「今/何が/起こっているのか」はわからない。しかしいずれにしても新しく情報を知ったならば「雨が降ること」もまた以前とは違った印象になる。雨の日は(許されるのならば)家で本を読もうと思う。しかし本を読んでいても、気になって時々窓から雨の降る様子を見る。地面の土を見る。想像する。そのように平日の昼間の時間を過ごしていると、そうだ、そういえば「3月11日」からちょうど2ヶ月が経ったのだということを思い出す。そして思い出すと同時にまた新しい気持ちに進んでいく。



・『四つのいのち』という映画を観に行ってきた。台詞もまったくなく、ある光景をただ写しているようなドキュメンタリー映画を鑑賞することの、体験としての豊かさについて。自分はだいたい3人以上の同じ性別の同じ人種の人(日本の人以外の人)がスクリーンに登場すると、もうわけがわからなくなるほど、物語のあるような映像を見ることが全然得意ではないけれども、それとは反対にこの『四つのいのち』のような映像であればいくらでも観ていられる。「いくらでも」は大袈裟だとしても、かなりいくらでも観ていられる。というかそれは別に寝てしまったって良いのだと思う。寝て起きてまた起きた場面からそれ以降の場面を観る。そういう見方が許される映画があったならば、それは世にも素敵な映画だと思ったけれども、それは一般的には「映画」とは呼ばれないのだった。しかしそういうものをこそ今観たい。エンパイアステートビル的なものを何時間も観たいかどうかはまた別の問題であるとして。だってそれは「コンセプト」ということすら別の問題なのだから。



・そのように考えていたときに職場の後輩に新国立美術館で開催されている『アーティスト・ファイル』という企画展を一押しされて、押されるがままに観に行く。松江泰治という人の写真作品と映像作品を観る。これが完全に「寝ても起きても/観ても観なくても良い映像」だった。そして自分はそのような映像をこそ起きて観続ける。高い場所から見おろしたような視点から定点で写される映像をじっと観ることの、体験としての豊かさについて。それはきっとリュミエール直系の「驚きのための映像」だし、より正確に言うならば「ただ『見ていること』それ自体が『驚き』であることを思い直すしくみとしての映像」だと思う。あるいはまた『cell』という写真のシリーズが良かった。立ち眩みそうになった(良すぎて)。航空写真にたまたま映り込んでしまったような人の姿のありようが、その姿が定着された像である写真が、何故これほどに特別な映像であるのか。その謎について考えたい。その謎について考えることは「自分」について考えることになるかもしれない。そして「自分は『世界』の『良さ』をどう捉えているのか」について考えることになるかもしれない。例えば谷川俊太郎という人は『VTR』という詩で「(ビデオ)カメラで記録すること」について「世界をそのひとつひとつの細部において、無言のうちに讃めたたえたいと願っている」と書いていたが、その「讃めたたえること」ととても良く似た「見ること」が並べられていた。



・全然気にしてないんだけど、数日前にtwitterの「フォローされている人」を見ていて「あれ?俺あの人にフォローされてなかったっけ?」という人が数人いることに気がついて、全然気にしてないんだけど(と書けば書くほど…)「そうか、何かその人にとって自分は何か違っちゃったのかな」と思ったりした、ということがあった。全然気にしてないなりに、その数人はたまたま(たまたまでもないと思っているからこうして考えてみているのだけれども)震災以降、特に震災のことを積極的につぶやいていなかった人で、あるいはまた「原子力発電所」の話題についても特に積極的にはつぶやいていなかった人たちだったのだから、これはもう想像するよりないのだけれども(あるいは今度会ったときにそれとなく探ってみるか)もしかすると何か「そういう話題」から遠ざかりたいという意識があるとか、あるいは「『そういう話題』を積極的につぶやく人」から遠ざかりたいとか、そういう意識がはたらいているのかもしれないな、と思う。そのことについても考えてみたい。へりくだってんのか偉そうなのか両方なのかわからないけれども、自分は自分なりに「意味がありそうな情報」をRTしたりしているつもりだったので、しかもそれが普通の友だちだったりもしたので、それは全然気にしてないと言えば嘘になる。それは「情報の伝え方」に関わってくる問題かもしれない。



・そういえばこの週末の日曜日には22日の生物多様性デー(ってなんだろう?)に合わせて全国100カ所以上で『幸せの経済学』の上映が行われる。自分はこの映画を2月に観に行って「ああ、これはもう可能なかぎり多くの人が観なければいけない」と思ったのだけれども、例えばそのような多くの人が観たら良いと思う映画を、多くではなくても自分の身近な人におすすめするような場面でも「情報の伝え方」は大切だということを最近特に思う。それは例えば「デモに誘ってみること」だって「原子力発電所について積極的に話すこと」だって「情報の伝え方」で全然違った印象になるのだろう。「どうしたら興味を持ってもらえるだろうか?」と送る相手のことを考えながらメールしたりしている、その工夫していること自体を少し「変なことしてるかな?」と思うこともあるけれども、しかし考えてみれば自分はずっとそんなことばっかり言ったりやったりしてきたのだとも思う。「こんな音楽聴いてみてもいいんじゃない?(中学)」とか「この洋服おしゃれだと思うんだったらあの店に行ってみない?(高校)」とかしてきた。だからそれは仕方がない。そして今は「幸せ」の「経済学」だ。



・何か面白いことを見つけたときに、それがなぜ、どのように面白いかについて考えるのだけれども、その「面白さ」がそのものに内在しているというよりは、それを面白がる自分について考える。そして自分は「社会の中で生きている普通の人」なのだから、そのような自分が面白いと思うことにはきっとそれなりの必然性があるのではないかな、とへりくだってんのか偉そうなのか両方なのかわからないけれども、思う。だからその自分の思考のプロセスも含めて他の誰かに伝えることで(普段こんなこと考えてた自分が、こういう部分でぴんときて、見てみたらやっぱり面白かったよ!)、伝える相手と一緒に面白がれるのではないかな……というようなことを考えて、考えたことを整理してみたならば、それはまるでビジネス書の(あるいは何かの勧誘の)マニュアルのようだけれども、最終的にはそういう伝えるプロセスのすべてが「アクション」なのだと思うし、そして工夫して伝えたならば、最終的には「待つ」ことしかできない。