&

  映像研究

練習の練習、そして

 
・「練習」について考えるようになったのは、それが「演劇」と関係があるように思えたからだし、「演劇」について考えるようになったのは、それが「練習」と関係があるように思えたからだった。何かを「練習」するということが、何かを「演じる」ことと、どう同じで、どう同じでないか、というようなことから考え始めたのだった。そのようにして去年の10月くらいからぼやっと構想を始めて、年をまたいで、ざわざわしながら1月を過ごし、27日の日曜日に無事に演劇の授業の発表を終了する。恐らくは最初で最後の上演作品の演出が無事に終了した。


・何かを構想するということ、何かを実現するということ、何かをより良く改良するということ、そのようなアクティヴィティの、まったく新しい事柄を実験することができて本当に面白かった。例えばその新しい事柄というのが「演劇」だった場合、自分が演劇を観に行ったときには「ああ、面白かったな、そしてその面白さは、とても細かい演出、とても細かい動きやとても細かい発声によって、成り立っていたのだろうな」ということを頭では理解しつつも、そのようなことが、本当にどのようなことなのかについては、想像するしかなかった。


・そして実際に、ある場所(舞台)で人が動いたり、話したり、映像を見たりすることで、わかるように思えることが、驚くほど沢山ある。だから例えば演劇の面白さのようなことが、どのような細かい演出、どのような細かい動きや細かい発声によって、成り立っていたのかということが、少しわかるようになったような気がして、今、そのことが何よりも面白い。


・(メモ)上演の時間の長さをどのような時間として考えるか/上演の時間の間ずっとひとつの行為を続けることはどういうことか/ふたり(以上)の人が舞台に立っているということはどういうことか/何かを「はじめる」ことが別の人によって繰り返されることはどういうことか/何かを「はじめる」ことと、何かを「終わらせる」ことが、少しずつずれながら接続されることはどういうことか/舞台上でDVDプレーヤーを再生することはどういうことか/舞台上でビデオカメラを持つことはどういうことか/舞台上でビデオカメラを持っていてそのカメラで写した映像を見ることができるということはどういうことか/舞台上でビデオカメラを持っていても全然違った過去に撮影された映像が映し出されることはどういうことか/舞台上でネットサーフィンするということはどういうことか/モノローグを編集することで「個人的な語り」以上の何かを構成することができるか…etc。


・そしてまたそれは「映像を使って/ビデオカメラを使って、何ができるか」ということについての、新しい発見でもあるのだから、そのことを自分なりに検証して、まとめ直して、また別の事柄と接続するということが、これから自分がやるべきことだ。ビデオカメラとスクリーンに挟まれた空間(それはつまり「全体」かもしれない)は「環境」となって、その「環境」に向かって「行為を指示する言葉(ある種の「命令」)」を投げかけることによって、人びとの「即興的な言語行為」が生成するのか。そのような言語行為を記録することが「アートワーク」となるのならば、その形式を取り出すことができるか。


・そしてそれは「ドキュメンタリー」ということと似ているように思えるし、それそのものとも言えるのように思えるけれども、では、何が同じで、何が同じでないか。ドキュメンタリーは言語行為を記録することがあり得るし、それは時には、即興的な言語行為を触発することも含めた表現なのだけれども、記録される出来事は予め存在する。それとは違う「行為を指示する言葉」があって、初めて生まれるような言語行為/出来事があるのか。それともすべては記録されることによって初めて生まれる出来事なのか。どうなのか。


・そして・あるいは・例えば「労働」ということと一見すると遠く離れてしまったようなこの(芸術)表現の形式はしかし、「行為を指示する言葉」によって「即興的な言語行為」を生成させ、その結果生まれる価値を「資本」とするという意味で、同じ事柄でもある。そして、例えば、そのような構造の外部に出る可能性を持つような「不確実性/混沌/横断/脈絡のなさ/・・・」こそが、むしろその構造の内部で価値を持つというのは、かなり素朴かつ荒っぽい考えであるように思うけれども、そして、あるいは、現実を揺るがせようとする試みこそが、むしろ現実の逃れ難さを強固にするというのも、相当に雑な考えであるように思うけれども、どうだろう。


・繰り返し同じことあるいは違うことを同じようにあるいは違うように考えている。