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  映像研究

メモ(真空という感じ)

・202101272021。帰宅する京王線の周囲の様子を眺めながら、今がいつだったのか。月末の諸々の手続きなどしていると、この一月が一瞬で消えたと感じる。毎年のことではあるけれども、一月という区切られた時間の暴力的な速度に打ちのめされる月末のひととき。それでも今年は色々な事情が相まって、これでもまだ休めている。あと10日ほどで一息つく。向こう岸にたどり着くまで泳ぐ。速いのか遅いのかがわからなくなるような感じもある。そうした意識の中で、なお言葉を書くことと言葉を読むことを手放さずに生活する練習。

 

・緊急事態宣言下の日常。そうした捩れもノーマルになってゆく。

 

・昨日の朝に撮影した写真は家の前の梅の木で、小さな花が咲いている。どんなセンサーがどんな情報を頼りに花を咲かせるのか。こんなに寒いのに。きっと「昼と夜の寒暖の差が、」というような説明はあり得るのだろうが、そのこととは別に、不思議と思う気持ちの中にいたい。自分は感じないのだ、その情報を。しかし花が咲くことで空気に何かの香りが漂うのならば、その香りを嗅ぐのは人だろうか。人よりも花が先行しているイメージ。

 

・写真から木のイメージを思う。たとえば「枯れ落ちた/木の間に空が開け/遠く近く/星がいくつでも見えるよ」というフレーズと「生命の熱を/真っすぐに放つように/雪を払い/跳ね上がる枝を見る」というフレーズには、いずれも、木と、見るということが書かれて、描かれている。それは茂った樹木ではなく、枝自体であるような木。その木のイメージは、抱え込んだものをすべて手放して、それでもなお、立っている存在を思わせる。その樹皮に視線がぶつかる。枝の曲線を見ることでなぞる。このような木の(イメージの)味わい方は、写真にも映像にもきっと難しい。絵画はだから、今でもなお木を描くのか。

 

・職場の別の部署の方が「閃いた」ことを話してくれて、そのように人が閃いた時に特有の感じが好きだ。他者と言葉を交わすことが面白いと感じるのは、話すことで何かが閃いているからだと思う。あるいは自分の業務の一つの極は、他者が閃く瞬間をセッティングすることではなかったか。閃きの設計。閃きは伝染することもある。