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  映像研究

メモ

・202004212313。何かの空気が変化するのを感じて勢いで夜にメモしておく。多くの人が精神的に追い詰められた状況で不可解なニュースが飛び交う。2020年4月21日現在、この日本という国では「国民全員に10万円が支給される」ことになっているが、その10万円を受け取らない人ことを明言する政治家がいる。受け取らないことを公務員に呼びかける自治体の長がいる。あるいは営業している店を吊し上げる公権力がある。それは自粛という念力の限界だろうか。そもそも感染したことを謝罪させられる環境がある。ネットワークにも映像にも謝罪の言葉(文字と声)が溢れる。そのような言葉がインプットされることで何らかの心理が醸造される。他者からの攻撃を前提とする思考は次々に不合理とも思える論理を産み出す。思考が素早い者ほどヴァーチュアルな他者を多く飼うことになるのか。ゆえにこの状態で考えるべきことの一つは、いかにして仮想の他者を締め出すことができるか、という問題なのではないか。震災の時にも考えたことだったが、いかに毎日多くの時間を「記者会見を見る」ことに割いたとしても、私たちは記者会見をしない。する必要がないし、記者会見をしている人に対して申し訳なさを感じる必要もない。「寝てないなら寝たほうがいいよ」と思うことはあるが「寝てないで記者会見をしていただいてありがとうございます」と思う必要もない。その思考は「私は記者会見もしていないし布団で寝ていて本当に申し訳ない」という思考に接続されかねない。平民にとって政治家もコメンテーターも専門家も目の前にいるとか知り合いの知り合いかもしれないとか生活感覚は理解できるとかでもなくて、ただの他者だということ。そして社会は他者が集まりやむを得ず共同体の形式を採用しているということについて、今の状況を踏まえた上で考えを展開できないだろうかと思っている。ところではじめに書こうとしたのはそういえば空気の話だった。空気を保つための努力あるいは工夫をいかに実践できるだろうか。少なくともあらかじめ謝罪の言葉をインストールすることなしに人と向かい合う(たとえばzoomの画面で)ことを試みたいと考えるが、それはこの環境において意外に難しいことが理解できる。そのために必要なのは対話であり、対話を潤滑に動かすユーモアかもしれない。これは誰もが言いそうな普通の考えだった。足湯のために中断。