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  映像研究

テレ

・202004222238。今日も一日が終わる。終わる前に書いておく。昨日の漠然とした空気の変化の上に、別の課題が置かれる。youtubeで「専門家会議」の記者会見を見ながら「緊急事態宣言の『折り返し』」という言葉を聞く。壁に貼ったカレンダーを見て、今日が「4月7日と5月6日のほぼ真ん中に位置することを思う。この二週間で時間の感覚が弱まっているような気もするが元々年度を跨ぐ春はこのような感じであったかもしれない。そのような今。

 

・午後に業務のzoom会議が一本。緊急事態宣言が延長される場合、または緊急事態宣言が解除されたとしても業務を通常に行えない場合の策を講じる系の会議。今の状況を考えればまったく事態は改善されていないのだからこの宣言の下の決定は延長されるべきと思うが、一方で別の論理で判断がなされる可能性もあり得るのだろう。自分が知っている限りにおいて幾つかの大学では既に「前期は原則オンライン授業」という決定がされて、その方向で環境整備に移りつつある。大学とも高校とも異なる特殊な教育機関あるいはサーヴィス業であるところの自分の職場は、当然大学ともまた異なった論理で判断をする可能性がある。そう考えると複数の可能性を温存したままプランニングしなければいけない。カレンダーの真ん中は策を講じる真ん中でもある。

 

・一方で大学で授業をしている知人がTwitterに書いていた「この状況だからこそ映像について考える」というような意味の言葉にも納得する。オンラインという言葉の意味は崩壊して久しいが、本来、空間的には離れたところにいる人へイメージを映し出す技術としての映像は、その真(?)価を発揮している、とも考えられる。「オンライン飲み会」の次は「オンライン帰省」だそうだ。「会うことの価値」は完全にそれはそれとしてどこかの世界には存在しているのだろうが、「オンライン帰省」という言葉の意味を瞬時に理解できる私たちは既に別の世界に住んでいる。

 

・今考えていることの一つは、この環境で学ぶことは継続できるにせよ、では「何を学ぶべきか」ということだろうか。映像を用いて映像について学ぶ。その循環は単純ではない。あるいは「撮影をすること」が抱えていた思想は霧散してしまったようにも感じる。もちろん簡単に失われるようなものではないけれども、見えない、捉えることが難しい、感じられない、今は。何かを撮影したいと思えるのだろうか?そして「他者が撮影した映像を見ること」は「自分が何かを見ること」や「自分が撮影をすること」によって、応答する(可能性を得る)ことでもある、ように思う。そのような応答は可能だろうか?つまり「世界を見ること」「世界を写すこと」に対する戸惑いの最中で「映像を見ること」など、できるのだろうか?ということを考えている。

 

・そしてこの状況において「現実をよく見ようとする」こと以外に映像の可能性などあるのだろうか?とも考える。寝るために中断。