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  映像研究

下がる、増加する、記録する

・202003171018。家で午前中は作業。録音された音声を文字にする仕事。ニュースとSNSのタイムラインを気にしながら作業。株価が下がるというトピック。昨日盛り場に出てみた印象に株価が上がるムードは全くない。「先行き不透明」という言葉はどういう意味か。平時は「先行き」が「透明」であり何事かが見えているということを意味するのだろう。いつもは未来は見える。ある状況においては見えない、見えないと感じる。その変化を考えることができる。イタリアで死者の数が増加する。文字にしても恐ろしい出来事が起こり、起こり続けている。それを文字通りの対岸と思ってしまっている。その一方でウィルスに国境はない。国境は制度的なものだと気づく。人の移動の影響がやはり大きいのだろうか。「対岸」と「国境」を一致して認識しているのは島国の特殊な事情に依るのか。国境が海でなく直に別の国と接しているリアリティとはどのようなものか。日本で行動が制限されることは今後あり得るのだろうか。たとえば自分の知っている大学は「4月20日」を目安として未来に一つ確定される出来事を打ち込んだ。一度未来に打たれた計画はまた状況の変化(心理的なものも含めて)によって引き抜かれることもあるのだろうが、にせよ、未来に何事かを打ち込むことが必要だという判断をしたのだろう。隣で打ち込む人の様子を見て、ああ、と思って、自分も視線を未来に向けるのか。昨日の夜に友人からLINEでメッセージが送られてきた。「お花見は、どうでしょう」という注意深く温かいメッセージ。「こんな時だからこそ...集まりたい!」(原文ママ)と返信。小さなコミュニティで起こっている出来事、小さな関係の中で生まれる心理を、少しずつ想像的に拡大することで何かを考えてきた。あるいは今もある部分に関してはそのようにして何事かを考えている。それを学問に応用しようとすることさえあり、それは自分がこの10年くらいで獲得した一つの思考の方法なのだと思う。それを「毎日の社会学」と呼んでみたこともあった。「集まる」ということが、その学の方法の中心にある。そうなんだよなと思いながらTwitterのタイムラインを見ていて『「集まれない」世界の中で-文化的に死なないために-』という記事を知り、読み、非常に強い力を受ける。言葉を読むことで強い力を受けるのはいつでも「人が集まる可能性」についてのものだった。「冷凍都市でも死なない」というページの名前も良いなと思った。記録しておく。そしてその「集まる」「集まり」の概念もまたアップデートされる。2011年に考えたことが地理的なこと(移動、分断、距離・・・)であるならば、いま考えを更新せざるを得ないのは、時間的な同時性ということについてかもしれない。急がず考える。一つ。こんな時だからこそリアルタイムではないにせよテキストを書き続けることも意識的に行ってみる。平時ではない時に何事かを考えてなおかつ自分の平時の考えを更新しようとすることは決して疚しいことではないと思う。というかそれくらいしかできることはない。別の作業のために中断。