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  映像研究

2017年の10月

 
・2017年の10月になった。夢から覚めたら遠くの未来にいたような感覚である。圧倒的な未知。


・業務内別業務、映像製作の諸々で約二週間が飛び去った。そういう業務から獲得するものもある。とか言えるのも論文を一応であれ完成させて送ることができたからだった。9/26に郵送。助かった。首の皮か蜘蛛の糸かとにかく細くてすぐに切れそうな何かをぎりぎり保ちながら研究を続けること。業務だか労働だかを言い訳にせず計画的に進めること。断るべきことははっきり断ること。そういうことを学ぶ。


・業務でゼミのようなことをやっていると色々と考えることがある。やはり自分が何か意味のありそうなことを話すことだけでなく学生が「自分にとって切実なこと」を話すことが決定的に重要なのだった。異様なこだわりとか誰に言われても譲れないこととか、そういう普段言わないことを、目の前に事実存在している人の輪の真ん中に投げてみること。データ/数値には表れない反応を得ること。時間になれば集まる。話をして解散する。


・そのことから派生したいくつかのアイディアを全然別の場所で実現させたい。


・先週の解党、合流、排除、選別、その他諸々のタイムラインに、久しぶりに「動いている」、目に見えて、目に見えるものや目に見えないものが変化している中にいるような感覚を持った。特に9月27日と28日の夜。「ああ、こうやって政治という何事かは進行してきたのだったな」と思う。「数の論理」ですらない。雪崩を打つように、ただ動く。はっきりと絶望的な流れに中にいながらも「絶望」とは言葉にしたくない。しかしこうやって戦争になるのだろうな、と。ああ、やっぱり避けられなかった、と。タイムラインが流れるのを見ながら、そのことをはっきりと感じる。


・それでもやっぱり「嫌だ」と。「NOだ」と。「殺すな」と。「人間であることを捨てるな」と。思う人も叫ぶ人もいるはずなのだ。共謀する人も。


・昨日の業務の空き時間にひとりでタイムラインを見ていたならば、枝野幸男という人が新宿の集まりに現れた様子を見る(写真で、映像で)。その時に、その顔や、わっと人が活気付く様子に、ああ、ここに「嫌だ」と、「NOだ」と、「殺すな」と、言っている人がいて、そのことに勇気付けられている人が確かにいるのだと、知る。そしてそのことと2011年3月11日以降のあの日々が確かに繋がっていることを確かに感じて、その時間の中で自分のなかに湧き上がった感情が圧縮されるような思いがあった。そのこと以外に、一体どういう確かなことがあるというのか。人は。