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  映像研究

2021年に1杯のアイスコーヒー

・書いたメモを後から書き直してアップロードしても良い。

 

・202108261909。猿田彦珈琲で。今年最初のアイスコーヒーを注文してみた。冷えることが怖いから夏であろうがコーヒーはホットでと数年来思っているけれども一年に一度くらいはいいじゃないか、すごく暑いし、と思って注文した。「氷少なめで」と添えて。元々はアイスコーヒーは好物だった。好物は変わる。

 

・前日の夜に思い立って午前から南大沢で『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞する。約3時間。映画評か舞台挨拶のインタビューかで「3時間はあっという間」と聞いていたが、そう言われると確かにあっという間だったようにも思う。濱口竜介監督作品は『ハッピー・アワー』と『寝ても覚めても』を見ている。『ドライブ・マイ・カー』は原作を読んでもいた。惹き込まれる展開があり、緊張を持続したまま映画の時間を過ごした。後半は自分のその緊張が少し途切れてしまった。しかし映画が終わった後に久しぶりの興奮があった。サーブ900という車の魅力も感じた。「あ、多摩ナンバー」と思いながら見ていた。

 

・映画の余韻の中にいながら夕方の業務へ。準備。2時間。

 

・そして帰りに猿田彦珈琲に立ち寄り夜になる。写真について考えていることが煮詰まっているからか、映画のカメラについて考えている。かつて5年ほど前に「映像を撮影することそれ自体」をつねに考えていた約一年があった。当時の職場の方々のプロジェクトに誘っていただき撮影と鑑賞を往復する実験を繰り返していた。今そのことも考え直すことができるだろうか。映像(動画)は、空気の流動を写し得る。というかどのような映像にも必ず空気の流動が記録されている、と言えるだろうか。あるいは、フィルムあるいはビデオのデータに記録された状態が、再生することで再び動かされる。結果的に、写し撮られている、と感じる。知覚することができる。想像することもできるだろうか。

 

・そのようなことを考えて帰宅すると、日本の古本屋で購入した、2001年の『ユリイカ』が届いていた。「特集:青山真治」。雑誌の名称が『ユリイカ』でややこしい。田村正毅のインタビューを読みたくて購入してみたが、感覚的な言葉からは色々ヒントがあるようでまだ汲み取れていない。しかしこれはすべての映画的な映像の撮影に当てはまることでしかないのかもしれないけれども、基本的には「動くもの=生きているもの」を写している、ということを考えた。「動くもの=生きているもの」を「引き込む」というイメージの撮影行為もあるだろうが、むしろ「動くもの=生きているもの」に「付いていく」というイメージの撮影行為もあるだろうと考える。

 

・「動くもの=生きているもの」に「付いていく」というイメージの撮影行為は写真にも想定できるだろうか。