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  映像研究

写真を真ん中に置いて話し合う

 
・201808291055。調布のコーヒー店にて。昨日に続いてデジャヴュの牛腸茂雄特集を見て、読んでいる。お盆が近づくと『SELF AND OTHERS』と『路地へ』を見たくなる。誰かが見たことをもう一度見ようとする映像。誰かがある場所で生きたことをもっとよく知ろうとすることとしての映像。そういうことが映像だったことを思い出して、いま自分が研究の対象としている映像、日々面白いと思う映像、一応チェックしておかなきゃなと思う映像、できれば消えて無くなって欲しいと思う映像との、かなさる部分と、ぜんぜんちがう部分を考えようとする。ぜんぜんちがう部分とは、何だろう。


・一枚ごとの写真は、良いも悪いもない。ただその一瞬であったということでしかない。選ぶということには正しいも間違うということもない。ただそれらが連なって、編まれて、一つの本になるならば、それを読むことは、自分にある特別な感覚をもたらす。プリントされた写真が展示されて、それを見ることもまた別の強い印象を受ける。


・見ることを言葉にすることはできない。できないが、話をするときにはそうするしかないだろう。大辻清司のインタビューの中に、「写真を真ん中に置いて話し合う」というフレーズがあって、それは文字どおり、そのような状況があるのだ。自分が学校と呼ばれる場所で何事かをすることを許しているのは、その時間/空間が存在することにおいてであるかもしれないと思う。それぐらい、そのような「見る場所」がある。それを尊いものだと思う。ゼミとか面談とか呼び方はどうでもよいのだ。


・写真とはなんだったか。このようにして「カメラを通して見ること」「シャッターを押す前に見ること」「見たものでも描いたものでもない痕跡が残ること」「言葉を排すること」「誰かがその痕跡を見ること」が、ほかにあったのか。このあとの世界にあるのか。人はこのような見ることを、見る能力を、すっかり資本(あえて名指すならば)に吸い取られ、もうそんな力があったことすら思い出すこともない。アートの感覚とか、デザイン思考とか、PCとかですらなく、ただ「見ること」を学ぶことが、なぜどこにもないのか。


・話は横滑りしてしまう。それを言うことはできないのか。昨日見たNHKのドラマ『ワンダーウォール』はちょっと面白かった。びっくりするような映像が、撮り方が、そして何よりも言葉が、自然にドラマの中に潜んでいて、ふとした時に、突き刺しにやってくる。ああいう映像がテレビから放送されることは珍しいのではないか。

個人的には、消えないで欲しいと思います。
それは、どうしてですか。
経済至上主義が、社会の幸福にとってほんとに得策なら、若者の自殺とか、こんな増えないと思うんですよ。
私は近衛寮に住んだこともないし、特になんの思い入れもないんですけど、ただ、こんなボロくて汚い寮をこれだけ歴代の寮生たちが残そうと努力し続けてきたっていうことは、案外ここには人間の幸福にとって、すごく必要な何かがあるんじゃないかっていう気がするんですよ。
寮の人にとってだけじゃなくて、世の中の大勢の人にとっても必要な。
わかんないですけど。
たぶん前の人たちも、それを伝えるために戦ってきてくれたんじゃないですかね。
そうですよね。
どうか、がんばってください。がんばれるところまで。