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  映像研究

練習、運動、試作、肩慣らし

 
・201806191151。考えることの、考えたことを書くための準備をしている。書くための準備は色々にあるが、書くこともまた書くことの準備になる。歌うための発声練習、走るための準備運動、設計のための試作、遠くへ何かを投げるための肩慣らし。そういう行為と重ねられるような書くことがあるのだと思った。あるいは頭の中ではいつも書いている。つぶやいている(Tweetではなく)。答えて/応えている。そして誰かと会話をすることは何よりも有難いことだと思う。読むことは直接的な準備だが、それはどちらかというと「燃料」のようなものなので行為とは別の種類の準備だ。


・篠原雅武という人の本をいくつか読んでいるが『生きられたニュータウン』という本はなぜか手に取ったことがなかった。そのなかの特に多木浩二『生きられた家』について書かれた部分を読んでみる。家という空間は物の集まりで、それを物の集まりとして知覚することから考えが始める。それを「物が記号から離れる」と書かれていてなるほどと思う。それはボードリヤールの『物の体系』の思考を別の方向に引き伸ばし、山本理顕アレントの思考と出会わせる。作られ、壊れる、物、をまず考えの真ん中に置いてみること。


・そういえば『万引き家族』の中にも「家」や「物」について思考が立ち上がるようなショットがいくつかあったように思う。風呂という場所の不思議、建築の下には土(埋葬)があること、玄関に積まれた「誰の所有物」とも言えないような地層のような事物、そして誰も住まなくなった空間の静けさとそこに残るもの・・・セットの空間は「作り物」だけれども、では「作り物」とは何か。撮影されることによって、生きられたかのように「見える/見せる」ための事物の不思議さもまたある。単なる「自然」でもあるいは「誇張」でもなく、おそらくはその空間に適切に、光、音、風が通り抜けるような設計がなされているのだろう。それは実在する事物でありながら、ある角度によってのみ機能する「騙し絵」のようであると言えないか。


・今日の記憶(記録)、家から駅まで自転車で行く時に(梅雨の合間の晴天だった)、田植えをする様子。綺麗に水が張られた田に機械で苗を植える人。自分がいま住んでいる土地にはそういう場所があり光景があり出来事がある。米に限らず農作物は実在する事物であるが、身体と特別な結びつきを持っている。それは身体に「なる」のだ。そんなこと言うまでもないのだが、言うまでもないことを確認することから思考が始まったりもする。食べることとは何なのか。今のところ人は食べることは必要で、病気で食べられなくなった人以外は食べる。あるいは「食べられなくなったらもうすぐ死ぬ」というのも多くの場合事実かもしれない。


・農作物は事物というか生命であるから成長する。収穫の時期があり「食べごろ」がある。それも考えてみると不思議だ。食べごろは人の都合のようではあるけれども、必ずしも完全に文化的/恣意的とも言えない、作物自体の「ある時間的頂点」のようなものもあるのだろう。スーパーマーケットで魚のパッケージに「わらさ(大きくなったらブリになります)」と書いてあって、それを読み「でも大きくなる前に殺されて食べられちゃったからブリにはなれなかったんだなぁ」と思って、人の名付けの恣意性を思い不思議な気持ちになったが、それは別の問題なのだろう。


・時間になったので中断。