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  映像研究

2017年の10月・その2

 
・昨日は久しぶりの休日でタイミングが合ったので、中野駅に行って立憲民主党の選挙演説を聞いてきた。政党に過剰な期待をするのはどうなのかと思いつつ、それでも、数日前の枝野幸男という人の会見ではっきり感じたことは、自分がこれまで見てきた限りでの結党とは違う、少なくとも自分にとってはその意味が、考えることがはっきりわかる話だった、そのことが嬉しかったのだということで、その感じを手がかりにしたい。これだけは絶対に譲れないという人間の尊厳としての理念を立てて、その上で議論と変化に開いているということ。


・そしてまた情緒的になっている場合ではないと思いつつ、あの結党には「この6年半」という時間が圧縮されているということもはっきりわかった。中野駅でも枝野という人ははっきりとそのことを言っていた。原子力発電所のことを忘れてはいけないと。転換すべきと。経済のために命を捨ててはいけないと。そのことが前提であるとして。投票する者(さしあたり投票するしかない者)は、その上でベターな判断をしなければいけない。


・抽象的なことと具体的なことあるいは歴史的なことを行き来しながら何事かを考えたい。最近読んだのは江口幹という人の『パリ68年5月 叛逆と祝祭の日々』という本で、今は「68年5月」について、あらためて知りたいと思う。「左」と一言で片付けられるような物や人は何もないのだろう。68年から2018年で50年になる。ディケイドに特別な意味はないかもしれないけど、それは何かを考えるきっかけにはなる。そしてボードリヤール『物の体系』もまた1968年だった。50年後の「物」について。物が消えることについても。