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  映像研究

「構図や色彩や光線」

・202004231942。未来のいつからかこの自宅生活を振り返ってもたぶん思い出すことがないであろう印象の一日。しかし日常とはそのような日々かもしれない。色々なことをしていたが時間に追われているうちに太陽が過ぎ去った。いわゆるひとつのリモートワーク。14:00にzoomを立ち上げてから、会議で時折発言しつつ並行してチャットワークに書き込んだりする業務。しかしふと考えてみれば、ひとつの会議に出席(聴講)していながら、別の作業を進めることができるのはリアルな勤務では難しいかもしれない。というこのテキストの頭の部分も業務と並行して書いていた。

 

・昼には車で郵便局へ。思い立って去年頻繁にお願いしていたラボに未現像のフィルムを送り現像とプリントを依頼する。ラボの状況をTwitterのタイムラインで知り、このタイミングでお願いしたいと思った。あるいは友人のカレー屋さんがテイクアウトメニューを公開していたため、当面食べそうな分を注文する。お金を使いたい。それは純粋に買い物をしたいという欲望だが、と同時に、自分がこれまで何らかの関係を持ってきた人の商いに対してお金を渡したいという気持ちがある。誰から、何を、買うべきか。自分は大人だから、それを選ぶことができる。普段はその選択を行動に直結することもできるが、今は行動が制限される。その行動の範囲を認識しながら、出来る限り気持ちの入ったお金の使い方をしたいと考えている。

 

・家にいるとつい本を購入してしまうが物流で働く人の労働の状況を想像すると、次から次へと通信販売で購入するのもどうなのかとも思う。この数日で届いた本は、前川修『イメージのバナキュラー 写真論講義 実践編』、そして大竹昭子『ことばのポトラック』。前者はどんな時でも購入しただろうと思うが、後者はこのような状況でなければ手にしなかった(Amazonのwebページを見なかった)かもしれないと思う。震災の後に、震災について書かれた言葉を、なぜか今読みたいと思ってしまった。おそらくそこに何らかの救いを探したかったのだろう。畠山直哉という人のエッセイ「ここでなにを撮っているの?」という文章を読み、その言葉は、写真を撮る者が、写真を撮る行為から離れた地点で書いた言葉だと思った。自分は自ら「写真を撮る者」だと名乗ることはできないが、自分にとって現在とは、写真を撮る行為から離れた地点だと認識している。エッセイの最後に書かれた言葉は、これから自分が写真のことを考える上で、何かの手掛かりになるだろうか。

 

ではどうして写真を撮るのか? 率直に言えば、僕は誰かにその写真を見せたいというより、誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っているのです。その「何者か」が、どんなものかははっきりとは言えませんが、僕が構図や色彩や光線に気を使い、できるだけ明瞭な写真を作らなければと思うとき、確かに僕は、その「何者か」が、後で困惑しないようにとの思いから、そうしているのです。