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  映像研究

この街で/生きている/宿題を/しながら

 
・8月31日は宿題の日である。8月31日と言えば宿題に追われる印象しかない。初めて徹夜をしたのも中学3年の時の8月31日だった(多分)。レリーフを彫り、カタログを作った。読書感想文を書いた(宮本輝)。その他のドリル的な何かもやったのだろう。なんでこんなこのなったのだろう…こんなことになるんだったらもう少し前に計画的にやっておけばよかった…という気持ちだけでやった(可能な限り)。そういうのび太的な記憶が積み重なって今の自分がある。受験生にアドバイスとかできる立場ではない。


・昨日は母を訪ねて三千里的な一日。母親の友人の住む房総へ。手入れされた庭の畑には色々な野菜がある。おかわかめ、花オクラ、など食べたことのない野菜を貰う。緑を見ると、土のある場所に行くと、意識が変わる。言葉を考える意識からふと離れる。そのことは重要ではある。秋だからか。


・それにしても図書館で集中した時間を過ごせないことだけが悔しい。図書館…図書館に行かせてくれ…と思いながら日々の生活を送っている。明日からの図書館はきっと空いているのだろう。静かになったその空間で二日くらいは集中することができる。いずれにせよ(進んだかどうかはともかく)そういうモードを獲得したことが自分にとってはこの夏の収穫だった。今更かよ、と思われながらも、自分にとって重要なことを継続的に考えるための生活を作ること。それがこの夏の課題の一つだった。


・「壁」「距離」といった自分にとって重要な概念を見つけつつあることも大きい。重要なのではないかと拾い上げられた言葉は、何度も書かれることで、何度も思い出されることで、自分にとって欠くことのできない概念になる。特に「距離」という語がいまの自分にとってはマイブーム(?)だ。「距離、距離。」と思って生活していると、宇多田ヒカルの『FINAL DISTANCE』だってまったく違った響きを持って聴こえるような気がする。統合されるものに対して切り離すということ。気がつけばそれは「繋がり至上主義」に対して、どう抗するかというある種のトレンドとも言えるようなテーマと関係していた。たとえば思いつくままに挙げてみたならば「調べてもわからないということ」「壊れたら元に戻らないということ」「無くしたら見つからないということ」「遠く離れている場所があるということ」・・・すべてが、ネットワーク/クラウド的なものに対するモチベーションだ。そういう気持ちを緩やかに育てていけたなら、一体どういう思想として纏められるか。


・たしか去年のことだったと思うが「どういうきっかけで映像に興味を持ったのですか?」というフランクな問いに対して「ユーチューバーを見て」と応えた学生と出会って、最初は冗談で言っているのだと思ったが、冗談ではなかった。というか何を冗談と捉えるのかが難しいのだが、それが冗談ならば、自分の存在も冗談だし、冗談によって資本主義社会は駆動されている。つまりそれは冗談でありながら現実の存在だった。それに対して言葉を失う。「なぜ自分の身体も言葉もつまり存在全てを商品やサーヴィスのために売る、つまりこの社会の奴隷にするようなことを進んでするのですか?」と問うてみたらよかったのだろうか。そうしたらそこで関係は断絶していただろう。自分にとって不条理と思えることはたくさんある。避けられない流れと判断したならば、なるべく早く乗った方が良いのだろうか。自分は「おしゃれであるかどうか」を何よりも判断基準にしている。


・そこでの「おしゃれ」もアップデートされる必要があるが、ひとまず自分が思ったのは、ネットワークに接続された人間の存在はおしゃれに見えない、ということだった。単純にたとえば電車の中でスマートフォンを操作している人間にはセクシャリティが感じられない。そのことをどう考えるか。同僚は「スマートフォンでネットゲームをするたびに性的魅力が消失していく」と表現したが、簡単に言えば「ヴァーチャルな『存在(らしきもの)』に意識を向けるほどに何か重要なエネルギーを盗まれている」と思わずにいられない。「盗まれている」「抜き取られている」あるいは「放出させられている」ということ。こういうことは既に老人の妄言として聴こえるのだろうか。どうしたらそのことを論理的かつ表現として伝えることができるのだろうか。


・人間であることの尊厳について。


・「表情」という言葉にし難い(ということはデータにし難い)ものをどう拾い上げるか?ということも面白いと思う。面白いというか緊急な課題?と言えるかもしれないとこの間ふと思った。電車の吊り広告のアイドルの笑顔(とされているのであろう)表情を見たときに「ああ、これを『笑顔』と捉えて、何かしら『良きこと』と捉えているのならば、この社会はそうとう不気味な様子になっているのだな」と思った。自分としては、よく他人が言う「目が笑っていない」というような発言に対して「誰が、どういう権利で、そんな判断を下せるのだろうか」といつも疑問に思っていた。つまり「表情を読む」ということは決定的に不可能であると思っていた、今でもどこかで思っている。人は人を表情で騙せるし、そもそもその前提になっている「騙す」ということ自体が何の根拠もない、と思ったりもする。


・それでも、表情を見ること、それは写真に写った人の顔のありようが、それを見た人に対して、何かの力になることを信じている。それは親しい友人であれ、一方的に知っている有名人であれ、様々な状況で力を及ぼすのだろう。そしてそうした表情は静かにゆっくりと社会に影響を及ぼす。あるいは逆に影響を受ける。そうして人の表情のあり方は時代とともに変化していくのだろう。その中で変わらない「顔のありよう」はあるのだろうか?そう考えて、ここはオペラシティだったから、アラーキーの展示を見ようかとふと思った。


・テキストを書いていると言葉は溢れる。昨日車に乗っていたら「時には昔の話を」という言葉が浮かんだ。友人と集まって時には昔の話をするような時間も欲しい。秋だからか。