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  映像研究

静かな火曜日

 
・201810160923。中央図書館に来た。少し間が空いてしまった。ほとんど一ヶ月丸々業務の時間を過ごして、焦りつつ今。気を抜くと自分のからだと精神は労働に引き寄せられてしまう。そういう状態から身を引き去らなければ考えることや書くことを再開することができない。記録を残しているから、一番最近中央図書館に来たのが9/18だとわかる。やはりほぼ一ヶ月だった。その間にこの場所で作業した論文を提出して、業務の映像制作に2週間ほどかかりきりになり、大学の講義を聞きに行く日々が始まり、フランス語のレッスンも再開され、季節は完全に秋のど真ん中になった。再開したい。


・昨日は少しの業務の後に『きみの鳥はうたえる』という映画を原作や予備知識なく観たが、すっかり頭の中がその映画の雰囲気に飲み込まれてしまって、懐かしいような、面倒くさいような、気持ちでいる火曜日。映像と音響が完全にスタイリッシュでありながら、人の顔や身体の表情も強い印象を残す。クラブのシーンでは思わずからだを動かしたくなり、カラオケのシーンでは思わず口ずさんでしまいそうになる。レイトショーで観たことも良かったかもしれない。もしも自分が今高校生で池袋シネマロサあたりで観たら(イメージ)そのままぼーっとしながら池袋をふらふら歩いて、特に何もできず西武池袋線に乗り最寄り駅前のファミリーレストランに友人を呼び出してこの映画の良さについて夜中まで話したかもしれない。でも、今はもう、ああいう場所に住みたいと思わないし、ああいう気持ちに全然なりたくない。懐かしいとはそういうことなのか。


・図書館に来る時に車にカメラを乗せてきてみた。撮ることがあるだろうか、何かを。晴れていないと写真は写せない。そういえば『きみの鳥はうたえる』では夜のシーンが印象的だが、今の自分は「夜になったら寝るんです」と思っている。時々夜に繁華街を歩くと、久しぶりにテレビを見たときのように「わー」とか「ほー」とか言ってしまうようになった。わざとでもなくその情報の多さに圧倒されるほどに年齢を重ねているということだろうか。年齢が若い人間は適度に情報を遮断できるかもしれない。あるいは別の何事か(隣の人の心、とか、自分の内面とか?)に集中しているから、情報だろうがノイズだろうが、あったりなかったりして全然構わないということなのだろうか。今の自分は凝視してしまう。その凝視を記録しておきたいと思う。新たなる凝視、と言えば中平卓馬だが、企画を立てず、作品、というほどの動機もなく、でも「写真を見たい」「写真で(現実を)見たい」という気持ちから写される写真とは、どのようなものになるだろうか。同時に「モチーフ」という考え方を今までよりももう少し厳密に考えてみたい。これは実習/自習である。


・この一日を贅沢だと思う。中断。


・作業中にブラウジング。自己顕示欲がないわけではないが(あるが)、しかしソーシャル・メディアでこんなにも「私はこのように重要な仕事をしました」「私のことを褒めている人がいます」「私の作った物を購入してください」「私はこれほど気の利いたことが言えます」「私はこうした著名な人と繋がりがあります」「私のことを見てください」「私のことを見続けていてください」という種類の言葉ばかりが並ぶと、馬鹿馬鹿しいを通り越して、人類学的考察へ進みたくなるが、もちろんそれとて自分とまったく無関係ということではないのだ。しかしそこで「自分のこの言葉も・・・」とかいう謙遜だか相対化だかの決まったプロセスに入ってしまうことよりも、文学や芸術には別の表現の回路があるのだということを、信じて、自分にとっての、そのような言葉やイメージを作り続けるしかない。


・生のあらゆる行程が、死さえも、いや死こそが、システムに完全に取り込まれてしまっていると書かれているのはボードリヤールの『象徴交換と死』で、50年近く前のその本を、しばらくは読み続けるだろう。それを読むことで何も解決されないが、違和感を表明することと、記号やイメージの問題が接続されるということを何度でも確認しておきたい。