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  映像研究

貧しさ、強制、自己言及

 
・家で業務の宿題をしながら手当たり次第に本を読む日々。それはある意味では幸福である。ふと浮かぶのは違和感であり敵である。何を問題とするのか。何が嫌なのか。感情も情動もありそれが思考の基点になる。どのような思考であれそれはやはりそうなのだと思う。


・メモとして。『ポストメディア都市と情動資本主義の回路 ──YouTuber、「恋するフォーチュンクッキー」、Pokémon GO |門林岳史』


・わけのわからないままに「労働」させられること、何よりも自分自身の「屈辱」という感情から考えを始める。重要なことは、その考えの道筋が多くの人の共感を得られるものということでもない、ということを自覚することだと思う。ハーメルンのように笛を吹きながら楽しそうに歩いてみたところで、誰もついてきてはいない。「生きることは労働なのだ」「誰もが労働をしているのだ」「労働は喜びであるのだ」いろいろな声によって、ある事象が労働であることを告発するという表現は脱臼させられる。そこでずっと拘っている山本理顕という人の(アーレントに由来する)「労働」と「仕事」の違いを導入してみようか。しかし世界の持続と事物の制作を底に据えた考えは、非物質的な行為の魅力を前にして、やはり力を持たないのかもしれない。「『マッチ売りの少女』の美学」のようなことを、他人から、あるいは自分の発想から、思うことがある。目に見えない、一瞬の、はかないもの、そういうことこそが「創造」である、という発想が、わりと実感を持って支持されているようにも思う。


・「労働」も「非物質性」もそれを言うことが、誰かを揺り動かすことにはならない。そういう冷静な認識が必要なのだろう。ではたとえば「貧しさ」はどうか。この日々の生活が貧しいのではないか?ということは、誰かを揺り動かすきっかけにはならないか。すぐに想像されるのは「みな、等しく、貧しくなろう」という声が響くことだ。この「欲しがりません、勝つまでは」は、あえて大雑把な枠組みを設定してみたところの、左右両イデオロギーから届く可能性があるのだし、何より自分自身の思考の手がかりの一つであるところのエコロジカルな発想もまた、欲望を抑制することをその基盤としている。「そんなに消費しなくてもいいんじゃないですか」という声。それは貧しさをきっかけにして、この生活/世界の「外」を想像することを止める。同様に屈辱を提案する、つまり「恥ずかしくないんですか?」は想像したしただけでも、ダメだ。口論にしかならない。「私は恥ずかしくないです」と「どういうつもりで言ってるんですか?」という分断しか生まない。「ドキュメンタリーという鏡」を差し出すこと、の困難もまたそれに類する。


・「強制されてんじゃないですか?」はどうだろうか。これは労働の問題において一定有効な力を持つかもしれない。長時間労働を含む肉体的/精神的な過剰な労働から生じる自死が、それを知った者を揺り動かすのは、きっとこの部分での共感があるからだ。そのことに人が思考を始めるきっかけの一端があるのだとして、しかし考え始めたことは「一見すると遊びのようにして、嬉々として、労働のようなことをさせられている」ことを問題としたいのだった。あるいは現実の光景としては「長時間労働を含む肉体的/精神的な過剰な労働」を逃れるほんの一瞬の隙間にまったく別の種類の、しかし確実にひとつのネットワークの部分であるような、労働が位置づけられており、人はその種の労働(ポケモン)に、癒しや救いを感じているということである。通勤電車の中でスマートフォンをつるつるする人は本当に安らいでいるようにも見える。あるいはその癒しや救いや安らぎが明日の「長時間労働を含む肉体的/精神的な過剰な労働」を支えているということもできる。うまく補完しあっている、この状態をどうしたらよいのか、という問いだった。


・ここで一足飛びどころか、一気に考えを解決しようと、危機を煽ることは、ほとんど「ミサイルが飛んでくる」という話と同じになってしまうので、気をつけなくてはいけない。かつて「宇宙人が攻めてきたら世界は平和になるのかしら」的なコンセプチュアルな発想を見聞きしたが、多分そうはならない。焦りは人を暴力的にすることもある。あるいは本当に社会的なことが一度中断してしまっても(311)システムはすぐに修復される。もちろん決定的に損なわれることや変化することがあるのだとして。テクノロジーの目的自体がそこで角度を変えることはあり得ない。だから自分が考える限りにおいて、ベンヤミンの『複製芸術時代の芸術作品』のラストの部分、ファシズムのテクノロジーから共産主義のテクノロジーへ、ということも、それ自体はあまり本気で考えることができない。中断。