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  映像研究

戦争に反対する

 
・自分が生きている間に国会議事堂前で「戦争、反対」とシュプレヒコールをする日が来ると思っていなかった。最初はただそのことが切なくて呆然としてしまったけれども、しかしその場で自分がすることをする。声を出すあるいは見る。見ることには力がある。この場所でもあるいはこの先の時間にも確かな力を持つ。隣に偶然いた人を見つめる。そして「これは間違ったことだ」と思う対象の方向へ意志を持って目を向ける。そしてうろうろする人たちがいる。または大きな音を出す人もいる。さらにカメラを使って記録する人たちもいる。ひとりひとり別々の人が別々の気持ちを持っているけれども、戦争ということから少しでも遠ざかろう、遠ざけようとする意識があるのだと思う。


・「戦争をするかしないかは、話し合いで決めるかどうかということについて、多数決という民主的な方法で決めましょう」とさらっと言われると「多数決」とか「民主的」という言葉のニュアンスが耳に残ってしまうけれども、実際は「来るべき時が来たら戦争ですね」ということだ。ゆっくりと、ソフトに、「大衆」が気づかないように進んでいるのだろう。ボイコットできないくらいに、その環境が「自分たち自身になるように」状況は進行していく。来るべきときはあっさり来るかもしれない。


・テレビのニュースさえ見る時間がないくらい働かなくてはいけなくて、少し時間があれば自己を啓発しなければいけない。あるいは自分の精神を安定させるためにスマートフォンのゲームで画面をつるつるしている。サブカルチャーに集中している。サブカルチャーは本来「カウンターカルチャー」としての意味を持っていたように思うけれども、今は消費ということでしかない。消費させること(労働)と消費すること(余暇)が生活のすべてで、そのような言葉で風景が埋め尽くされる。それ以外の言葉を忘れてしまう。消費と自己に没頭している。対人関係も消費もひとつの画面の中で見ている限りわけがわからなくなってしまった。こうして画面に向かっている自戒を込めて。


・かつてメモした「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という言葉はきっぱりとしていて気持ちがよい。そしてひとつの理想である。そうだったら良いのにと思う。しかし労働と消費しか見えない中で「生活の美しさ」を探しても、それは社会の状況がわからなくなるだけだ。美しさは他者を必要としないから、いくらでものめり込んでいくことができる。だから「各自の生活を美しくして、それに執着すること」は今や罠であるように思える。もちろん「美」という事には、同時にもっと別の可能性があるとも思うのだけれども。


・そしてそもそも「美しく」することを考える余裕もないくらいに働かなくては「普通の人」は生きていくことができない。気がついたならばお金がない。競争させられる。監視/管理される/し合う。そして「お金がなければ美しくすることができない」ということも、本当は絶対条件ではないのだけれども、そのように思ってしまうような環境が現に存在している。だからお金がなくても(お金とは関係なく)生活そのものの中に「美しい」「気持ちがいい」「楽しい」ことを知って、そのことを他者と共有しようとすることは確かに抵抗であったのだ。しかしそのことも混乱させれられる。「対人関係も消費もひとつの画面の中で見ている限りわけがわからなくなってしまった」から。


・あらゆる歴史の中の戦争は貧しさから起こるのか。あるいは戦争が起きるような状況に進んでいく過程で貧しくなっていくのか。卵と鶏。経済的にも、精神的にも、貧しくなっていく、その貧しさの極点としての戦争があるのか。例えば全く想像の外にある第二次大戦について、きっと日本の中では「がんばって助け合って何とか乗り切ろう」みたいなムードだったんだろうなぁとぼんやり考えていたけれども、実際は全然違うかもしれない。すぐ隣の人とも精神的な貧しさの極地のように憎しみあうようなムードだったかもしれない。むしろその方がリアルに想像できる。消費と自己への没頭と憎しみでむしろハイになったような状態。そのことを想像したならば、今のこの環境の中にももちろん見つけることができるような気がする。


・TOKYO DEMOCRACY CREW