&

  映像研究

戦争について

 
ヴァルター・ベンヤミンについて勉強したいと思っている。そのようなことをふと考えたのは、今年の1月に提出した修士論文の口頭試問の場で指導教官から色々なコメントをいただいた後で最後に「ポストフォーディズム、コントロール社会、認知資本主義、そういったことはある意味では既に論じきられているわけで、では今なにを考えるべきでしょう」というような難問を投げかけられたことからで、そこで自分は完全にぼやっとした予感から「それに対する直接的な答えになるかどうかわからないけれども、ヴァルター・ベンヤミンを読み直してみたい」と答えたのだった。それは完全にぼやっとした予感なりに、論文のひとつの要でもあったボリス・グロイスのテキスト『生政治時代の芸術作品』が当然ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をトレースしつつ書かれていること、そしてベンヤミンの「アウラ」ということと、芸術や労働の「非物質性」ということのあいだに、どのように関係を作れるか、あるいは作れないか、というようなことを考えていたからで、あるいはまたそのことは、今この2014年に映像メディアとは何か?という問いを展開していく上でも、ひとつの参照点となるのではないか。そういうことを考えていた。


・それで春から同時にちょこちょこと読めるものから読んでいるロザリンド・クラウスの70年代〜80年代に書かれたテキストを理解する上でも、ベンヤミンの複製論はつねに参照される。『表象08』の「メディウムの再発明」という文章もまずベンヤミンへの言及から始まっている。あるいはベンヤミンの「アレゴリー」とは何か。またはドゥルーズベンヤミンとのあいだにどういう関係を考えることができるか、など色々考えている。


・だけれどもベンヤミンを読み返してみたいと思ったのは、それが「戦前」に書かれた文章であるからで、あるいは「戦後と戦前のあいだ」に、もしくは「戦中」に書かれた文章であるからということが、ひとつの大きな動機であるかもしれない。今『複製技術時代の芸術作品』をあらためて読んでみると「アウラ」という全然わかるようでわからないキーワードや「礼拝的価値/展示的価値」という明快な対比に注目しつつも、その文章の終わりにあとがきとして書かれたその部分にこそ、考えなければいけない事柄が読み取れるように思う。大切だと思った部分はノートに書き写している。書き写した文章を、言葉を、読み直す。あるいはこのようにして打ち直す。テキストとして。デジタル・データとしてアップロードする。そのこと自体に希望はないけれども、自分にとって何かを確認するために書いてみる。

あとがき
現代の人間のプロレタリア化の進行と広汎な大衆層の形式は、おなじひとつの事象のふたつの面である。あたらしく生まれたプロレタリア大衆は、現在の所有関係の変革をせまっているが、ファシズムは、所有関係はそのままにして、プロレタリア大衆を組織しようとする。ファシズムにとっては、大衆にこの意味での機会を与えることは、大いに歓迎すべきことなのだ。(それは大衆の権利を認めることと同一では絶対にない)。所有関係の変革を要求している大衆にたいして、ファシズムは、現在の所有関係を温存させたまま発言させようとする。当然、行きつくところは、政治生活の耽美主義である。大衆を征服して、かれらを指導的崇拝の中で踏みにじることと、マスコミ機構を征服して、礼拝的価値をつくりだすためにそれを利用することは、表裏一体をなしている。

政治の耽美主義のためのあらゆる努力は、必然的に一つの頂点をなしている。この頂点とは戦争にほかならない。戦争、ただ戦争のみが、現在の所有関係に触れることなく、大規模な大衆運動に目的をあたえうるのである。政治の側から見れば、ほぼこのようにファシズムの現実をまとめることができよう。技術の側から見れば、ただ戦争のみが所有関係に触れることなく、現代の技術機構を全面的に動員することができる、ということになる。もちろんファシズムによる戦争讃美は、このような論拠を用いはしない。(以下略)
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』1936


・この文章は1936年に書かれたとされていて、また(読んでないけど)いくつかのヴァージョンがあるとされている。しかしさしあたり自分はこの文章に書かれた環境と、自分が知覚される限りでの現在の環境に重ね合わせて読んでみようとする。あるいは本文とりわけ前半に書かれた映画、写真などのいわゆる複製芸術/技術と大衆の関係について、そしてファシズムや戦争のあいだに想定できる事柄について考えてみたい。それは当然そのような環境に対抗する原理を探るためである。たとえ今すぐに戦争が、例えば徴兵のようなことが起こらないとしても、何よりも環境の変化に、大衆の意識の変化に/メディアに対する知覚の変化に抵抗するために、できるひとつの方法は歴史に学ぶことだと思う。平時と言われる環境はすべて「戦後と戦前」のあいだにしかあり得ないのか。それを歴史から学びながらもどうしても変えることはできないのか。この文章が書かれた数年後には日本は戦争に突き進んでいったとされている。今まで全然わからなかったけれども、最近そのことが想像できるように思う。