&

  映像研究

歴史

・帰宅する京王線で書いていた文章を一度消した。12月を折り返してこの日。この先数日の休みを挟んで年末は30日まで業務が続く。ある程度までこの業務の諸々にかかりきりになるのは止むを得ないとしても、イメージとしては出来る限り「息をしながら」進んでいきたい。それは文字通りの呼吸を深く長くすることであり、また外の情報を引き入れ、可能であればそれを他者と語ることでもある。

 

・帰宅して、おでんを食べながら、NHKのニュース映像を見て、「安全保障の歴史的な転換」と話されているのを見聞きして、それから考えている。考えて、眠り、翌朝に書くことになった。確かに「転換」と思うのは、気がついたときにはすっかり議論の内容や方法が移り変わっている(と思える)ことで、今そのことを考えている。

 

・誰もが、それぞれの持ち場において出来る限り「良く」しようとそして「善く」あろうと日々試みているように思っている。年末だからだろうか。近い過去を振り返ってみて、この2022年ほど、人の懸命さを至るところで見ることはなかったと感じている。そしてその隙をつくようにして、あるいはその姿勢を逆手に取るが如く、進んでいく物事がある。

 

・同時に誰もが、自分の発言を丁寧に点検して、偏り(と感じられる表現)を避け、介入される可能性を下げる工夫を実践しているように思う。自分ひとりの願いや信念を表出することは自制され、またはそれを専門とする「表現者」なる存在に外注するようにして、結果的に個人である一人ひとりは、バランスを取った「発言」を再生産しているようにも感じられる。と書いてみて、それは自分もまたそういう傾向を抱え持っている。

 

・たとえばこうした雰囲気によって、真っ向から戦争に反対する言葉が生まれづらい環境が生じているのだろうか。そのように考えてみる。あるいはそもそも本当に、自分が属しているとされている国が戦争することを想定した上で、その戦争の関わりの度合いについて議論すべき、積極的に議論したいと考える人が増えた、ということなのだろうか。議論をすることが求められている、ということか。そのことがわからない。

 

・自分はいつでも戦争なる状況について「現実的」な「議論」とは別の次元で考えてきたのかもしれない。その姿勢を完全に手放して「議論」に参加することとは別に、どのようにして、どのような言葉を発することができるのか。何よりもまず自分が歴史に学ぶ必要がある。