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  映像研究

眠り、高い山、距離、物語

 
・少し休む。ジョナサン・クレーリーのような人が『24/7』のような本を書いたことに、この本が本屋に並んだ時に驚いた記憶があるけれども、映像について考えることはつねにネットワークについて考えることで、映像について考えることはつねにメディア環境について考えることで、映像について考えることはつねに労働について考えることで、映像について考えることはつねに眠りについて考えることでもある。眠りについて考える。考えていると寝ているということもある。電車に乗って座れたならば10分ほど記憶を失うことはなんなのか。誰の声も聞こえない場所に一瞬行って戻ってくるような感覚がある。眠りが必要だ。


・歩いて歩いて、ふとうしろを振り返ると「ここまで歩いていた」「案外遠くまで歩いていた」と思うようなことがある。その距離。過去は回想することしかできないのだからつねに懐かしいし不思議なイメージとして想像されるしかない。未来はない。私たちに許された想像は「未来のある地点から回想するようにして現在を語る」ということだ。回想をしているように、回想という方法を使って、現在を語る。真っただ中は自分のからだとあまりにも結びつきすぎていて語ることができないから、それを引き離すためにこのような「面倒な」手続きが必要になる。必要とされる。


・日常的によく会う人とそのようなことを話していた。「いつか、この日々を懐かしく思い返すこともあるのだろうか?」と。そういう言葉が救いのように響く時もある。あるいはそうした想像の果てには「いつの日か/長い時間の記憶は消えて/優しさを/僕らはただ抱きしめるのかと/高い山まであっという間吹き上がる/北風の中/僕は何度も何度も考えてみる」というフレーズがあるだろうか。美しさはこの現実の中にあるわけではない。そうした見方、フレーム?方法?が必要だ。距離が必要だ。一方で距離ばかり取っていると、真っただ中で生きることは難しい。例えばかつて「学生」のような時間はそうした距離を取りながら、真っただ中を想像する(適当なことを話したりする)期間、季節?であったかもしれない。2016年の「学生」に、こういう感じの話はどう思われるか。


・あるいは「未来に起こって欲しいことを更にそれよりも先の時間から回想するかのようにして想像する」ということもする。というか、未来のことについて想像することは、つねにそのような、これもまた一見面倒な手続きを経て、語られる。語りたいのだ。現在の報告でも状況でもなく、人は人と語りたい。一晩で沢山の物語を聞くような時間。そうした物語を交換する(交感する)集まりが偶然にも12月に行われたならば、人びとはそれを忘年会と呼ぶ。物語の多くは語ったそばから忘れられる。忘れられる幸福。