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  映像研究

にいた・をみた・である

 
・「どこにいた」を記すための備忘録があった。同様に「何を見た」を記すための備忘録があった。誰に会ったとか、何を食べたとか、どんなことを話したとか、そういうことを記しておくための備忘録があった。そしていつの間にかそれは「何である」ということを記すことが多くなった。この文章もまたそうである。遠くに見える山に指をさす。「あれは山です。」「あれは川です。」「これは雲です。」「これは岩です。」指し示すための言葉は、何かを判断するための言葉ではなかった。その物の輪郭をなぞることで、むしろ自分の身体の性質を確かめるための行為だった。そういう言葉を通じて、自分が、自分の外側と向かい合っていた感覚を忘れていたことを、思い出した。そういう言葉と、自分の目と、自分の指と、自分の時間が、一直線であるような、自分の外側との向き合い方が在ったような気がしていたけれども、それは幻かもしれない。嘘かもしれない。夢かもしれない。心のことは、よくわからない。心を、それと名指すことで、何か別のものと分けることも、よくわからない(心身二元論の否定)。しかしいずれにしても(ばっさりと関係ない話)こういうことを考えないつもりが、気がつくとついぼやっと考えてしまっていることを思うにつけ、例えばこの社会で宗教のようなものがトレンディになってくるであろうことが、今後そうなるだろうと予想されることが、わかるような気がすることも、それはそれとして、備忘録しておこうと思う。自分の欲望を知り、自分以外の人の欲望を想像する。そういう作法(?)のようなことが、カジュアルに、色々な思想と結びつくのかもしれない。だからこそ、しかし一方では「物」をよく見なければいけない。「見ること」を知らなければいけない。ゴダールという人も、ドゥルーズという人も、おしゃれな人は大抵「見ることを学ぶ」と言うだろう。「見ること」と「待つこと」は似ている。あるいは「見ること」には、もっと別の、何か別の大きな可能性があるのかもしれない。見ることを学ぶために、写真を撮影することや、映像を編集することは、とても役に立つと思う。一枚の写真から、一つの時間の流れを持った映像から、見ることを学んだプロセスが感じ取れれば、それは良い仕事だと思う。しかし「何かを見ること」と「何かを作ること」はかなり違う。「見ること」には持続する時間があり、一方「作ること」はいつでも後から、その作られた何かによって知られる。「見ること」は、そして「見ることを学ぶ」ことは、何の役にも立たないかもしれない。「何の役にも立たない」何かを、しかし自分が欲望していることが確かであるとき、その理由を「心」に求めることはつまらないと思う一方で、では、それは、一体どういうことなのだろう?と思う。「見ることを学ぶ」ことの動機は、きっと「責任」でも「快楽」でもないのだとしたら…?と考えて、ある人はきっと「東洋」を発見したりもするのかもしれない(当てずっぽう且つ脱線)。そしてまた別の人は「見ることの倫理学」のようなものを構想するのだろう。その倫理学は(もちろん)通常の日常的な意味での「倫理」を「見ること」と関連づけた「プライバシーの侵害」とか、そういうこととは全く関係がなくて、むしろ「見ること」が持続する時間のようなものを生むことから、そのような感覚を意識の活動に置いた上で、はじめて発見することが可能になる「振る舞いの可能性」のようなものがあるのでないかということだ。というこれは何の話だろう?