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  映像研究

新宿・大飯・高尾

 
・7月1日の日曜日は業務終了後に新宿アルタ前に移動したならば、その場所は「原発やめろ野田やめろデモ!!!!!」の解散場所になっていたのだから、その場所で街宣車の上から発せられる色々な人の色々なメッセージに、歌に、コールに、そして叫びに耳を澄ませる。あるいは自分も何かを声に出す。再稼働・反対。アルタの大型ヴィジョンの横の「AOKI」のビルにプロジェクターで映像が投影される。大飯原発のある場所で再稼働反対を声に出す人々の映像が、微かに(視力3.0の人には見えるくらいうっすらと)映し出される。だけれども何が起こっているのかはわからない。


・それで家に帰って「IWJ」のUSTREAMの映像を見た。今も見ている。多くの人が、それぞれの声で、からだを揺らせて、メロディーのように、旗を振りながら、何かを叩いて音を鳴らしながら、リズムを合わせて、時にずれながら「再稼働・反対」を声に出す。波のように、大きくなったり、少し小さくなったりしながら、その行動は、出来事は、終わらない。今は24時を少し過ぎたところ。なおも終わらない。終わりそうで終わらない。あるいはまったく終わる気がしない。終わらない出来事を見続けている。

『ガチョウは今まさにキツネによって殺されようとしているのだけれども、その猶予の時間にガチョウは「ガーガー」と声を上げて祈る。そしてガチョウはその祈りが終わらないことにおいて殺される時間が引き延ばされるのであるから、その一羽のガチョウはひたすらに長く祈り続け、それを見て他のガチョウたちも一羽また一羽と祈り始める。そしてその「ガーガー」という祈りの声の大合唱が続く限りはこのストーリーは終わらない』


・ところでそれはピナ・バウシュという人の『パレルモパレルモ』という舞台を観たときに、感想として考えた事柄だった。そのガチョウの叫びが、人間の生きてきた歴史そのものであるかもしれないということだった。生き物であるのだから、声はいつか途切れるのだろう。しかし声が途切れるとき、その途切れる声は、別の声が始まるきっかけになるかもしれない。例えばその場所の声が、今日のこの声が途切れたとしても、また別の人が、別のかたちで声をあげるだろう。そして、その別の声は、別の声でもあるけれども、同じひとつの声でもあるのだと思う。自分の叫びと誰かの叫びは、同じひとつの叫びなのだと思う。


・その映像を見て、そのことがわかったならば、わかった人は、別の場所で、同じでもある別の声を、あげなければいけない。