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  映像研究

高原の日記

・後から書いておくこれは日記。高原にはいない。家と西新宿の職場を反復する日々が続いている。反復が自動的に感じられるようになり、同時にこの夏の曲線がピークを越えて緩やかな平地に到達したように感じられる。ここは高原。しばらくこの時間が継続したならば、下りはじめることになる。

 

・日記を書きながら生活していると、日記を読むことに救われるような気持ちになることもある。帰宅する京王線では業務から解放されて、完全に忘れることは難しいけれども、意識を切断すべく、直接は知らない人が書いた日記を読む。この一日が別の人の別の身体によって生きられていることを知って、誰かに言葉を書く静かな時間がわずかでもあることを確かに感じて、安心したような気持ちになる。

 

・いつも思うことは、日記における詳細かつ具体的な描写の、文字通りの「有り難さ」についてで、それは字数の限られたSNSでは難しく、また自分は事あるごとに「具体性」と唱えながらも、自分が言葉を書こうとすれば、概念を並べた思考のような何かが流れ出す。日記の言葉から、視線や輪郭や手触りが引き起こされると、ああ、と声を漏らしそうになる。あるいは息を止める。小さな祈り。

 

・明日は業務だけれども朝からではないから、NHKオンデマンドで何かを見たり、来週のマンダラに備えてピチカート・ワンを予習したりする。いつかカバーしたい『メッセージ・ソング』を聴く夏の夜。「冬のある日、」からはじまるその歌を、どこかで、誰かに向けて歌うこともあるだろうか。

 

・その欲望を映し出すようにYouTube曽我部恵一がカバーした『メッセージ・ソング』から、キリンジがカバーした『陽の当たる大通り』へ繋いでくれる。90年代の華やかで刹那的な歌が、声とメロディだけになることで、静かな時間の思考を浮かび上がらせる。その思考は小西康陽という人のそれであり、そしてそれを口ずさむ者にも伝染する。言葉にするとありきたりかもしれない、しかし、強い気持ち。強い気持ちに満ちた歌を夏の終わりの熱帯夜に聴いても良い。

 

・家と駅の間の道には田んぼがいくつかあり、この季節はそれを見ることにも励まされる。夜の稲の姿にも惹かれる。目で捉えられる映像はカメラでは捉えることが難しい。iPhoneはまた別の姿を写し取る。視覚とは別のその映像を見て、感じて、考えることもある。

 

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