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  映像研究

速度に勝つか負けるか

 
・という風には考えていない。勝つ、とか、負ける、とかいう風に考えることは(基本的に)ないし、これからもなるべくそのように考えないようにするだろう。それで、そして、時間についてだった。むしろ、速度についてだった。「時間が経つのははやいなぁ」という感覚についてだった。あるいは「ものすごく未来になったらこんな風な変化が起こるかもしれないけれども/まぁとりあえずすぐに起こることはないと思うけれども/でもそのようなことを仮に想定してみることによって/今の現実のムードのようなものを考えてみることができるかもしれない」と思っていたことが、もう既に実現されていたときの「あ、そう」というぽかんとした気持ちのようなことだ。


・街の図書館はTSUTAYAになるかもしれない。というか、そうなる。びっくりした。日々びっくりすることだらけだけれども(1万3000シーベルトとか)久しぶりに自分が居酒屋トークとして予言したことが、あまりにもそのままに、しかしあまりにも早く、そして何よりも本当に、そのように変化する兆しをみせていることに驚かずにはいられない。本を借りたければTポイント・カードだ。びっくりする。それはもう「民営化」とか、「企業化」とか、そういう印象でもなくて、単に「潰れかけた国のサーヴィス部門を、グローバルな資本が安く買っている」ということで、そこには何かを良くするための考え、とか、そういう意識みたいなものはまったく感じないけれども、どうなのだろう。


・そのようにして「みんなのもの」は微妙に、しかし確実に、ゆっくりとしているようで、たぶん本当に一瞬で、変わる。「みんなの公園」は「ナイキの公園」になり、「みんなの図書館」は「TSUTAYAの図書館」になる。「みんなの種」は「モンサントの種」になる。神経はコンピュータ会社の、遺伝子は医療会社のものになるかもしれない。「おしゃべり」は通信会社のものになる。夜見る夢はオリエンタルランドのものになり、未来の時間は保険会社のものになるかもしれない。僕や私の「生」は、考えられる限り様々な方法で分割され、パッケージされ、資本として、時には「お金」というかたちをとって、もう既に、世界中を旅しているのかもしれない。


或るインターネットラジオを聴いていて「例えば10年前から現在への変化と考えてみると煙草は吸えなくなってきてるし自転車は規制が厳しくなってきてるし夜に音楽に合わせて踊ることもできなくなってきている/このペースでもう10年経ったらまるでSFみたいに『視線を管理する』とか『公共の場で私語禁止』とか『呼吸管理法』とかそういう世界になっちゃうかもね」という話があって、それはあまりにも面白い話として話されていたけれども、同時にそれはあまりにも的確な批評で、あまりにも適切な想像力で、そして、では、その想像力を、どうやって、現在の、自分の、理性を保つために活用できるのか、と考えることが大切だと、あらためて思う。


・たとえば、誰もが誰か、何となく、うっすらと「倫理のようなもの」が必要だと感じてしまうようなムードの中で、しかし、その方向に伸びる、その力を、どのように適切に使用(?)すればよいのか。と考えたりもする。基本的には、その力を、誰もが(そうしたい人は)自分に対して向けること。自分以外の他者に向けて自分自身の倫理の矢印のようなものを、決して向けないこと。誰かを裁こうとしないこと。それを(そうしたい人は)自分に対して向けた上で、それを日常的な振る舞いとして示すこと。あるいは表現すること。それによって誰か他の人が何かの影響を受ける「かもしれない」と思うこと。かもしれないを信じつつ、続けること。