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  映像研究

朝について

 
・朝について朝思う。概念としての朝について。メタファーとしての朝について(雨の夜の後に光の朝が…)。日本全国毎朝のキラーチューンとしての「新しい朝が来た」について。小学生の頃の『ズームイン!朝』のあの列島感について。そして今はまた別の、新しい朝であることについて。鳥の声を聞きながら、あるいはこの季節ならば雨の音を聞きながら、時々はラジオを聞きながら、お湯を沸かす。そして午前の時間は貴重であることについて。午前の時間の意識が最初に立ち上がってからしばらく持続する集中力を、いま自分が一番やりたいと思うことに向けよう、というそんな『日経WOMAN』とか書いてありそうな(実家に帰ると妹が買ったりしている)ことについて考えながら、効率的な勉強法について考えている。


・26日はちょっと昔から知っているアーティストの人と、かなり昔から知っていてかつ一時期は同僚でもあったアーティストの人がトークをするということで、それを聴きに行く。面白かった。何かのトークであれ何かの講義であれ「きっとここらへんに落としどころがあるのかな…」と思って、大体が実際にそうなる、と言えば不遜だけれども、そういうことが普通な中で、でも一昨日聴いたトークは(形式も含めて)全然そんな風ではなかった。何かを確認するための話ではなくて、作品を作る人が「普段どんなことを考えて生活をしているか」という話が話されていて、それ自体は日常的な会話のようでありながらも、色々はっとさせられるところがある。作家は美術史のために作品を作っているわけではないという事実。そして作家は社会的な問題を解決するために作品を作っているわけではないのかどうなのか。


・そして昨日また元同僚かつ後輩と会って少し話す。ふと「最近ファッションについて何か考えることはあるか」と聞かれて、そうだな〜ないな〜と応える。ところでファッションはどうなのか。今もこの列島のどこかでは新しい服について考えている人もいるのだろうと想像する。あるいはファッションよりも肉体なのか。そしてからだのかたちよりも動きが気になるのか。色の記憶は鮮明である。服はかたちとそして色なのか。時々スポーツ用品的なお店にいって、全く買うつもりもなく「ランニングシューズ」を見る。手に取ってそれを履いて歩いたり走ったりするところを想像することが趣味だ。鮮やかな色の、尖った、つま先の上がった、軽い、ランニングシューズ。そういうものを「はずし」としてのファッションアイテムとして捉えるのは90年代的な心性なのか、どうなのか。