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  映像研究

何かがわからないのだが、何がわからないのかわからない。

 
・「何かがわからないのだが、何がわからないのかわからない」という言葉が好きだ。その状況は結構良いと思う。そういう状況でどこかからやってきた当事者でない人が「答えは本当は出ているはずだ(心の声に耳を澄ませよ!)」とかスピリチュアル風なことを言ったりするのは、まぁそれはそれとして(適当にあしらって)自分のペースで考える。あるいは調べる。わからない状況をわからないなりに考えるしかない、というのは一体何のことだろう? それで「何かがわからないのだが、何がわからないのかわからない」及び「何かを知りたいのだが、何から学べば良いのかわからない」自分は、この数日(3月11以前に片方抜いた親知らずのもう片方を抜いたりしながら/親知らずを抜くと数日お酒を飲めなくなるので/それを口実にしばらく家で誰にも会わなかったりするのも合宿っぽくてわりと良い)家で読書をしていた。しかし「何がわからないのかわからない」のだし「何から学べば良いのかわからない」のだから、それはもう片っ端から読むしかない本的なものを。読んで、ほうと思ったページにポストイットを貼ったりしながら、それで飽きたら別の本を読んで、またへぇと思ったらしばらく考える。そしてまた別の本を…という書物の中の「センス・オブ・ワンダー」を探すよりない。


・図書館へ行き文芸誌とか思想誌?とかをまとめて借りたり読んだりしてきた。「現代思想」の3月号『認知資本主義とは何か?』を読む。岩井克人という人の「もう一度『貨幣』と『資本主義』を語る」とか、水嶋一憲という人の「金融コミュニケーション資本主義からコモンのエコロジーへ」などの文章を読み、また去年末に読んだ水野和夫という人と萱野稔人という人の『超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)』を読み返してみたならば、「実物経済=産業資本主義=物を作ってそれを売って利益を得ること」から「金融経済=金融資本主義=お金の貸し借りで利益を得ること(?)」への移行が、この数十年で起こった変化(グローバリゼーション)であると同時に、500年とかそういう時間の流れの中で、つねにフロンティア(という名の植民地)を開拓する過程で、その場所を開拓し尽くした果てに起こる状況(利潤の危機)のアメリカ版(イタリア>オランダ>イギリス>そしてアメリカへ覇権国は移行する)でもある、ということを考える。しかしいずれにしても、そのような今の社会の前提、というか現状、というかインフラ、というか条件(ぴったりきた)、になっているのはそのような、大きな利益を得るために、大きな差別の上に成り立っている『しくみ』なのだから、それに対してとても素朴に「人としての豊かさとか文化の面白さとかってそういう状況からは生まれづらいんじゃないかな」とか思ったりするけれども、ではどうしたら良いのだろう?と思う。


・あるいはまたここ最近宮台真司という人の書いたり言ったりしていることも気になっている。少し前にウェブサイトに「TPPに反対の立場を表明した」ことも興味深い。いずれにしてもそれは今の状況(3月11日以降起こったこと/今起こりつづけていること/これから起こるであろうこと)に関して、ぴんとくるというか、この状況の中で理解しやすい言葉だと思う。だから2年前にぱらぱらっと読んでそれっきりになっていた『日本の難点 (幻冬舎新書)』という本をもう一度読んでみたならば、そこには今現在言われている(書かれている)「市場/国家から、共同体へ」「経済/政治から、社会へ」「効率/再分配から、相互扶助へ」「『任せる』から、『引き受ける』へ」ということが確かに書かれていて、なるほどと思う。「ネオリベ市場原理主義(「小さな政府」&「小さな社会」)と新自由主義(「小さな政府」&「大きな社会」)を区別し、後者を推奨する」というあたりも、なるほどと思う。「共同体」であり「社会」であり「相互扶助」が大切だという。そして『社会』について考えたい。しかし(誰を指しているのか自分でもわからないなりに)一般的には『社会』と言えば、それは「会社」とかなり近いような意味で捉えられていると思うのだし、「会社」が「共同体」や「相互扶助」であるというのは、まさか昭和でない現在では一般的ではないにしても(少し寂しい気もしてきた)、しかし「社会」を「企業(あえて「会社」ではなくてそう示してみる)」と違ったレベルで/基準で構想するということは、きっと難しいのだと思うし、とりあえず自分だって難しい。


・これは完全に勘だけれども「人が3人くらい集まれば、それは/それが『社会』なのだ」と思う。これは最近特によく思うことで、だから別に「市役所を通したから『社会』」とか「インターネットに掲載されたから『社会』」とか、どうも『社会』という言葉はそういう意味でもないような気がしてきた。それはもちろん普段の生活においては、まぁそういう意味で使ったり考えたりしているのだけれども、どうもそうでもないらしい。何故そう思うのかは(まだ)不明。「何かがわからなかった」しかし「何がわからなかったか」と言えば、それは「『社会』とはなんだろう?」ということかもしれない。インフラとか住民票とかそういうことでもなく、「関係性の束です」みたいなポエティックな表現でもなく(それも少し近いけど)、しかしそこで示されるような『社会』について考えよう。これも完全に勘だけれども「そこで示される『社会』は限りなく「可塑性」のあるものとして考えられる」のだろう。だから例えば今自分のtwitterのTLでは坂口恭平という人が、新しく『社会』を作るために激しく動いていて、しかも動いていることが実況中継のように記されているのはとても象徴的だ。どのようなかたちであれ『社会』が作れるということ、あるいは「発見できる」ということを示そうとすることには意味がある。そして、そのようなことを理解した上で、さて自分はどうしようとも考える。


・「今の状況」のことを再び思い出す。また違った文芸誌であるところの「すばる」の6月号には中沢新一という人の『日本の大転換(上)』というテキストが掲載されていて、それも読む。それは主に「原子力発電所」について書かれた文章で、原子力発電所の事故を受けて、ではそもそも「原子力発電所」とは、あるいは「原子力」とは人間にとってどういうものなのだろう?ということを、人間にとって最初の「エネルギー」であるところの「火」まで遡って考えている。そしてその歴史から見た「今の状況」について書かれている。数日前に購入した、内田樹×中沢新一×平川克美大津波と原発』という本に書かれていた内容と重なるアイディアもあって(ちなみに全然知らなくて『ラジオデイズ』というサイトから対談のmp3をダウンロードしたら本の内容とまったく同じだった/から少し勿体ないことをした/からこれからはちゃんと調べてから買おうと思う)面白く読む。「原子炉=一神教=日本人には管理できないはずのもの」という途中までをとても面白く読み、しかし「こんなに面白くて(面白がれるような切り口で/「日本人」とはこういったメンタリティを持っているのであるみたいな分析が中心で)良いのかなぁ」と思っていたら、最終的には「原子炉=一神教市場経済」という方向に話は進む。それはだからやはり同時に「経済」の話であり「社会」の話でもあるのだということを考える。「今まさに考えなくてはいけないこと」の中にも色々なレベルがあるように(優先順位というようなものでもなく)「今まさに考えなくてはいけないこと」を支えるような思想についても同時に考えたり考えなかったりする。