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  映像研究

季節の終わりと始まりの感じの水曜日の備忘録

 
・お引っ越し、の手伝いは2011年の秋。センチメンタルな東京の秋。センチメンタルな気持ちになる余裕もなく高尾T邸の引っ越しの日。AちゃんやY一家も手伝いに来て賑やかに片づけ。幼児や乳児にちょっかいを出されつつ(カマキリを捕まえさせられたりしながら)リビングの雑巾がけ。あるいはそれは山部の部室の大掃除のような気持ちだ。ちょっと卒業式みたいな感じもなくもない。だからそれは何かの春。贈る言葉を贈る暇もない春。色々な出来事が起こって色々な人たちが色々な判断をした結果として住む場所を変える人たちがいるだろう。半年間。あるいはそれよりも前から。その場所や色々な場所で。沢山の話をした。だからもう特に何もない。集合写真を撮るだろう。



・そして車で色々な場所に立ち寄りながら10日ほどかけて九州へ向かう、そのような引っ越しのスタイルも2人らしい。それでしかし自分はその車に乗ってみたのだ。旅は道づれ。車は中央道で山梨方面へ。山登りの帰りに何度かおじゃまさせてもらった八ヶ岳の麓のS君の実家へ。最初の宿場までツアーに便乗。何故か3人で『LIFE』を流しながら合唱してドライブ。



・そしてS君の実家に到着したのは21時過ぎ。ご両親にご挨拶しつつ今回もまた緊張するほどのもてなしを受ける。お腹いっぱい食べる。そして東京とも高尾とも違う秋の夜の秋の夜らしい空気を吸いこむ。あるいは暗い空に星を見る。4人でなぜか子どもの頃の話になった。どういう気持ちできっと自分たちの親は自分を育てたりしてたのだろうかというような話になった。そしてそれがばっちり当たっているかどうかはわからないけれども、とりあえずそのようなことを想像できる程度には私たちは大人になったのだなぁというような話になった。そして気がつけばもう大人である私たちはうっかりすると架空の子育てについて話し兼ねない。



・どういう良い気持ちが、どういう楽しさが、どういう快楽が、どういうからだの運動が、生活の中に繰り返されることによって、ある人の基盤のようなものが形づくられていくのだろうか?と考える。どういう種類の言葉を交わし合うことでどういう種類の信頼関係が形づくられていくのだろうか?と考える。あるいは思い出す。だからそれは自分たちのことでもある。今まで一度も思い出さなかったようなことも思い出すかもしれない。そしてそれは贈り物を贈り合うようなことかもしれない。それはあらゆる意味で未来の、未だ訪れていない時間の話で、だからその場所の4人は他の色々な場所とまったく同じように時間の最前線だった。素晴らしい瞬間は少しずつ形を変えながら何度も繰り返すように起こりつづける。その予感に満ち満ちた夜。