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  映像研究

読書について・本をお薦めすることについて・言葉について

 
・ここしばらく本を読んでいる。自分にしては比較的本を読んでいる。購入する本に対して読む本の割合がなかなか良い。色々な種類の本を読む。あるいはぱらぱらしてみる。ところで「本を購入してからその本を実際に読むまで」のタイム・ラグ(ラグと言うかどうなのか)は面白い。購入するときには、何となくぴんときたから、というくらいの軽い気持ちで購入してみて、それからその本は家にやって来て窓際の塔の上に積まれる。そしてその塔が積み替えされるたびに(あるいは倒れるたびに)上に置かれたり下に置かれたりしながら、それぞれの時間を過ごし、そして「然るべき時」が来たならば、拾い上げられる。読む。その「然るべき時」という感じが凄い面白い。



・もちろん「即戦力」という感じの本もあって、そういう本は買った帰りの電車から一気に読んで完全にばっちりだったりすることもあるのだけれども、そうではなくて普通に買ってから「然るべき時」までが7年、とかそういうこともある。最近偶然にも読んでいた本に立て続けに「ニーチェ」という人が登場したのだから、ニーチェって誰だっけ…?と思ってwikiなんとかで調べたりしつつ、次に書店か図書館に行ったときにはその人について調べてみよう、と思って、しかし、ふと駄目もとで本棚を見てみたら『現代思想の源流』という有り難そうな書籍があり、その本にニーチェという人の項目があったので、それを読む。その本が面白かったかどうかはさておき(普通くらいに面白かった)、そういうふうに家のなかに本があったりなかったり、その本を読めたり読めなかったりするのも、それはそれで面白い。



・一年に一度とかそれくらい非常に時々/業務の関係でもあるのだけれども「何の本を読んだら良いのですか?」と聞かれるとか、あるいは「何をそんなに読むものがあるのですか?」という種類の質問をされたりされなかったりするけれども、そういうときにどういう種類の本をお薦めすることができるのか、というか単純にどう返答するか、その返答によって何かが問われている気もする。個人的な考えとしては、基本的かつ究極的には「読む必要を感じないのであれば本なんて何も読まなくていいんじゃないですか」ということになるけれども、それもどうなのか。というか「本を読む=学ぶ」という理解である自分にとっては、それは「何を学んだら良いんですか?」に等しい質問として、基本的かつ究極的には大きな謎がある。



・「本を読む=学ぶ」という理解である自分にとっては「プラス・アルファの読書」というものは原理的にはあり得ない。つまり「自分という人間がこう在った上で、更にこんなことも学ぶとより良いのではないか」という動機から本を読む感覚が全然わからない。全然わからなくはないけれども、それが学びに繋がるのかどうかは謎だ。既に水をたっぷり吸い込んでいるスポンジがそれ以上は水を吸収しないように、それが自分の外側にあり続ける限り、その接触は根本的な変化にはならないような気がする。そうなると必要なことは「水を吸う状態になる/すること」であって、からからでぱさぱさの「もうここで水を吸い込まなかったら駄目かもしれない」というくらいの状況で接触することが望ましい。そうすると言葉や文章が驚く程よく理解できる。理解できすぎて、盛り上がりすぎて、1ページ読むごとに休憩して自分のことを考えたりしつつ、また本を取る。そういう読書は豊かな体験だと思うけれども、しかし、それを絶対に必要とか言うのも、それはそれで難しい。



・それはもう信仰的な話、あるいはそれをメソッドにしてしまおうものなら、新興的な信仰に似たようなプロセスの何かになってしまい兼ねないけれども、果たして「学ぶ」ということについていろいろ考えてみたときに、そのことを避けて通ることは出来ないのだろうなぁ、という種類の話題、あるいはそれに類する話題を最近色々な人としているような気もする。「人は困らないと何も身に付かない」と書けばあまりにも凡庸。別に凡庸でも良いのですけれども。しかしそのような話題の中で、そういえば本はどこかへ行ってしまった。



・長い時間の中で「学ぶ」ということを捉えたいと思う。1冊の本、ひとりの著者、1枚の写真、1本の映像、1人の人、1つの町、1つのあらゆるもの、それに対して「適切な時間」を簡単に決めることはできないし、それが早ければ早いほど良いはずもない。3年前に東京芸大アントニオ・ネグリという人が来るとか来ないとか(結局は来なかった)の時のシンポジウムで、壇上の人たちがひととおり話し終わったあとで、会場にいた老紳士が質問でもない、感想でもなく、「思っていること」を話した。「仕事の合間にこつこつと『ミル・プラトー』を読みつづけて、最近ようやく読み終わった」というような報告を(確か)していて、会場にいたすべての人たちは、その発言に、何かそれぞれ自分のことと、そして他の誰かにとっても大切なことを考えたと思う。そういう恐らくは何十年かで1冊の本を読むようなことの強さを考えたい。



・例えば「お洒落」について考えたときに、それを「大学のときは『お洒落』してたけど社会人になったら全然そういう感覚なくなったよ」みたいな使い方をすることが全然わからない。人はお洒落になり続けるしかない。お金を払ってアイテムを手に入れるということはまったく本質的なことではない。同様に固有名詞を暗記することもそれ自体では特に意味がない。当然「流行」はひとつの要素でしかない。物は壊れるし、人は衰える。そして通帳の残高は減ったりするのかもしれない。けれども、知恵も、感覚も、その総体としてのお洒落も、決して損なわれることはない。「学ぶ」気持ちさえあれば、きっと大丈夫。そう思う。



・ある人にとっては17歳でぴんときた何かが、別の人は30歳でぴんとくるかもしれないことを非常に面白いと思う。あるいは88歳くらいでぴんとくるとか、ついぞぴんとこないまま別の何かに夢中になって忘れられていくことも面白い。他の誰かがぴんとくるように無理やり誘導するでもなく、「30歳でも遅くないと思うよ(俺は17歳だったけど)」みたいな格好悪い挑発をするでもなく、そっと1冊の本を投げる程度の誘惑をしたい。そしてされたい。例えば今まで子どもの頃とかにはまったくぴんときたことのなかった「宮沢賢治」についての何かが最近急速に自分の周りに集まってきて、気がつけばもう修羅、みたいなことが、今このタイミングで起こることを面白いと思い、そして偶然かつ当然でもあると思う。