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  映像研究

革命の全体像を把握することはできない(のかどうなのか)

 
・例えばある音楽が鳴り響いていて、その鳴り響いている空間はまさにその音楽のための空間、という感じで鳴り響いているときに、そのリズムにぴったりと合うようにもうひとつの音楽が、まったく聴こえないくらいの音量で鳴り始めている。そしてその小さく鳴っているもうひとつの音楽はしばらくはその小さな音量で、今まさに鳴っている音楽のアクセントになるかならないか、スパイスになるかならないか、くらいの音量で鳴っている。そして次第にそのもうひとつの音楽はヴォリュームを上げていく。これまでは聴き取れなかった種類の音が、今でははっきりと知覚できるようになって、その空間にいる人たちの何人かはほとんど無意識にその変化を感じ取って、今まではとは少しだけ違ったステップでからだを揺らすようになる。



・そして「もうひとつの音楽」のヴォリュームが上げられていくのにつれて、相対的に「今まで鳴っていたはずの音楽」はヴォリュームを落としていく。ゆっくりと、しかし確かに変化を続けて、そしてある地点を超えた瞬間に、その空間の感じはそれまでとはまったく違ったものになる。気がついたときにはさっきまで「もうひとつの音楽」と呼んでいた音楽で、あたりまえのように踊っている。リズムはずっと続いている。誰も何も止まらない。その空間にいる人は誰もその変化について話したりしない。



・スイッチはひとつのボタンを押すようなものではない。ある音楽が別の音楽に緩やかに接続されるイメージ。2つのヴォリュームがクロスする、そのポイントは誰も認識しない。音楽が鳴っていない時はないという意味においては、その変化はいつも起こりつづけているとも思える。その変化とは本質的には関係がないボタンを誰が押すのかについて争いが起こっているようなときにも、変化は続いている。そして、その変化が、例えば100年、とかそれくらいのスパンで起こっている出来事だとしても、つまり自分がその出来事の全体を知ることがないとしても、そのことが、その変化に対して興味を失う理由にはならない。というか「全体像が把握できない」からこそ、その変化に対して希望を持つことができるという、この気持ちはなんだろう。