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  映像研究

言葉を記す/趣味としての「平和」

 
小出裕章さんの『放射能汚染の現実を超えて』という本と並行して、小沢健二という人の『うさぎ!』と『企業的な社会、セラピー的な社会』を読んでいる。連載当時から、あるいは「ひふみよ」以降に3巻の書籍のかたちになってから何度か読み返しているけれども、あらためて『うさぎ!』に書いてある言葉は重い。今この状況にいることで気がつくことも多い。テクノロジーが大きな差別の上に成り立っていること。マス・メディアによって情報がどのように「デザイン」されているかということ。そして歴史や人(人びと)の心が見え/聴こえづらくなっているということ。沢山の困難がある。しかしまた希望も書かれている。歴史の中に続いてきた生活や文化の意味と価値。言葉の持っている現実を変える力や面白さについて。うさぎたちはお話の中で「南の大陸に『灰色との戦い』を学ぶためにやってきた」と書いていたことに気がついた。戦いはいつも色々なところにあって、例えばこの「絵本の国」の中にいても時々見えたり見えなかったりするのだと思う。そしてうさぎたちが「車社会の問題」を考えてみることからも「灰色」の存在に気がつくことができたように、今この状況では「電力の問題」に目を凝らしてみることによって、もっと大きな「社会のしくみ」について考えることができる。


・そしていま自分の周りも含めて色々な人が色々な言葉を記している。この瞬間に誰かに読んでもらうことで考えるきっかけを与えようとしている言葉もあれば、いつか自分や他の人が読み返すことによって意味を持つような言葉もある。というようにその言葉は色々であるのだけれども、それらは、大きな出来事とその出来事に対するアクション/リ・アクションであるということにおいて「部分」であると強く感じることがある。どうやったらもっと伝わるだろう?と考えながら記す。それに反応するようにして別の言葉を記す人がいる。そのほとんどすべてはコンピュータ・ネットワークを通じて読まれる。しかしそのように記された言葉とは別に、別でありつつも繋がりながら「発せられる言葉」もある。それもまた色々な場所にある。あると良いと思う。




・そして毎日少しずつ読んで少しずつ考えて、少しずつ備忘録しているのはやはり小出裕章さんの『放射能汚染の現実を超えて』という本だ。この本の中にも「より大きな仕組みに気がつく」こと、そして「気がついた人から連帯する」ことが記されているのだから、それはひとつの「灰色との戦い方」を示している(それだけが書かれているわけではないのだけれども)と考えられる。どうしたらもっと伝わるのだろう?本当は「技術者」「専門家」「研究者」と呼ばれる人は、そんなことを考えずとも仕事はできるのかもしれない。しかしある困難を前にして多くの人と連帯するために語りかけようとするとき、そこにはデータや知識とは違った種類の言葉が生まれる。


・そしてこの本を読んで「差別」という言葉をあまりにも直接的に使っていることにはっとさせられて(だってそれは「差別」なのだから・オブラートに包むような言葉では伝わらない・4人で10個のパイを分けるのに1人が8個を取っていることを他の何という言葉/概念で指し示せば良いのだろう?)しばらく読み進められなくなってしまって、そしてまた「では『差別』ではないこととは何だろう?」と考えていて、またはっとして「平等」という言葉に辿り着いた。「平等」。その言葉を読み、聞き、声に出してみたときの、懐かしい感じは何だろう。久しぶりに感じる「平等」という言葉の感触に何とも不思議な気持ちになって、そして「なぜ自分は『平等』という言葉を『懐かしい』と思ったのだろう?」と考える。「平等」は小学校の道徳の時間ではあまりにも当たり前のものとしてあって、そして中学を経て高校の倫理の授業では熱心に話されて、そしてその後は忘れられていく言葉なのか。どうなのか。


・そしてきっと小学校の頃の「平等」は「平和」と同じくらい「メジャーな言葉」としてあったと思う。というかある時点までは「平等≒平和」のようなものとしてあったと思うけれども、いつしかそれは切り離されていった。「『平等』であるからと言って『平和』であるとは限らない」という切り崩し方をされて、今や「『平等』であることは『平和』にとって不都合である」ということにされてしまった。それが自分の成長とともにあった(つまりいつの時代にも「成長」とはそのような変化としてあった)ものなのか、あるいはしかしそれは例えば20世紀後半という時間の流れの中でそのように変化した(させられた)ことなのか、どうなのか考える。きっと両方なのだと思う。しかしその後者についてもっと考えてみることはできないものか。つまりこの何十年かで、人びとの意識から「平等」という言葉が消えつつあるのだとしたら、それは一体なにで、どうしたら良いのか。いまも小学校ではちゃんと「平等」について話されているのか。


・そして「平等」について考えて、それをまっすぐに見ることができたならばそれは「連帯」のきっかけともなり得る。しかし「平等」はいまやどうにも旗色が悪く(旗だけに赤いと思われる)、そんな言葉を口にしようものならば、居酒屋の空気は凍り付き、友だちだと思っていた人との関係は悪化、家族にはすっかり見放されてしまうだろう。「クリエイティヴなお仕事」なんて絶対にできない。ただ一言「平等」と言ったばっかりに…。そして「おかしいなぁ、かつてはあんなに『メジャーな言葉』だったのになぁ」と思って首を傾げていたならば、どこかから「親切な人」が駆け寄ってきて教えてくれるかもしれない。「あのね『平等』っていう考え方もあってもいいと思うし、でも別にそう思わない人もいるよね。まぁそれは『趣味の問題』かな。人それぞれってことだよね。」この人は誰なのか。この人が「こういうこと」を言いたい「親切な人」だということはよくわかった。ではその人は(そんな人はいるのかなぁと冷静に考えもしますけれども)「本当は」「何を」「考えて」いるのだろうかと思う。


・そして「趣味の問題」だ。「平等」は「趣味の問題」に成り下がってしまった。「平等が好きな人」もいるし「平等はそこまで好きでない人」もいる。もしそれが本当ならば、とても悲しい。そうしていつかきっと超メジャーな言葉で誰もが疑わなかった「平和」という言葉すら、切り崩しにどこかから誰かがやってくる。というかもうすでにやって来ているのだろうな。「まぁ『平和』って言っても色々あるよね、っていうか誰にとっても『平和』ってあり得ないから難しいよね。結局人それぞれってことだよね。(とりあえず空気読もう!/はぁと)」この人は誰なのか。この人の完全に誤った「親切さ」はどこからやってくるのか。考える。そして強く(かつ普通に)思う。「平和」は「平和」だと。