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  映像研究

文章を読むことからも考える。

 
・4月11日はあのようなデモの翌日であるのにも関わらずしかしもちろんそれとは関係がなく普通に業務。今日から新しいシーズンが始まるので行事的なもの。終了後スーツを着た同年代の職員の人に「昨日デモに行ったらしいですね」と聞かれ、業務の風景と「デモ」という言葉のギャップに戸惑う。昨日ちらっと高円寺に来た後輩ガールからの情報だったようで、せっかくなので少し話す。民放で報道されていたのかどうかなど。その後同僚と待ち合わせジュンク堂8F喫茶室でしばしMTG。春からのことなどこちらでも色々と話す。16時解散。


・夕方久しぶりの途中下車は荻窪ささま書店にてディグ。105円コーナーにて小出裕章さんの『放射能汚染の現実を超えて』を見つけて即手に取る。この期間色々な「専門家」「解説委員(ってなんだ)」の方の意見を聞きつつも、個人的には小出さんの文章や話はわかりやすいし、自分が何かを考えるときのひとつの指針ともなっている。そんな人の本が105円。あとで調べるとAゾンでは10000円になっていて、それはそれで災害インフレーション過ぎるけれども、しかし105円は安いから買っちゃおう……とそこで揺れ。比較的大きいのであろう揺れ。思わず隣で本棚を物色していた初老の男性と顔を見合わせる。思わず「結構揺れてますね…。」と話しかけてしまった。初老の男性は僕が抱えていた小出さんの本の表紙が目に入ったのであろうこう言った「原発は…ありゃもう駄目だ。俺は明日逃げるよ。」しかしその初老の男性は結構な量の古書を購入していたので、こちらとしては「明日逃げる人は、古本をばんばん買わないのでは…?」と思ったけれども、思ったときにはもう男性は消えていた。荷造りを始めたのかもしれない。







・4月12日も余震で目覚めて落ち着かない日々が続く中での普通に業務。昼前に家を出てBERGでジャーマン・ブランチ。隣のカップルが軽めの口論をしていて聞くでもなく聞いたところ女性が「でも私はやっぱり菅さんは現地に行って土下座でも何でもするべきだと思うのよ」と話していた。「君の意見はわかるよ、しかしだね…」という格好で押し黙る男性。このような会話が今この国のあらゆる多くの場所でやり取りされているのだろうことを考えると不思議な気持ちだ。これを「政治的」だと言うのなら今までのいつよりも若者は政治的だが、そういうことでもないのだろう。とりあえずもっとロマンティックな理由で口論できるといいのになぁと思う。


・業務終了後今日は実家へ帰る。電車の中で読み返しているのは今だからこそ毛利嘉孝という人の『文化=政治 グローバリゼーション時代の空間叛乱』や『NO!!WAR』のような書籍で、それらはどちらも2000年代の新しい(と呼ぶのかどうなのか)社会運動についてのテキスト。もちろんなぜ/それを/今/読むのかと言えば、日曜日の高円寺の「反原発デモ」に行ってみたことから自分なりにどう別の何かへつなげてゆけるか考えるためだ。過去の事例を踏まえてた上で「今の状況」におけるアクション、例えば原子力発電所に対する意思表示の方法としてのデモについて考え、どうすればそれを継続的に(時に楽しく)続けていけるかということを考えておきたい。または自分だって「デモ」に対してほとんど実体験がないなりに、更に全然そういったことに対してハードルが高いような知人・友人から尋ねられたときに(デモって実際、どうなの?)スマートにレスポンスできるようにしておきたい気もする。プレゼンテーションまではしないですけれども。


・あるいはまた全然違った雑誌『朝日ジャーナル』の「日本破壊計画」という見出しもセンセーショナルな号も購入してところどころ読む。てっきり震災についての特集かと思ったけれども、どうやら震災前からの企画で震災直後に出た雑誌らしく、冷静に考えればそれはそうだろうと思った。飯田哲也さんのエネルギーについてのテキストなども(タイムリーすぎて)震えるけれども、最後の方の宮台真司という人のやや長い論考『日本社会の再設計に必要な思考』が非常に刺激的だった。先月4日のISEPのエネルギー政策についてのシンポジウムの発表のときも「おや」と思ったけれども、自分が今までちらほらと読んだり聞いたりした宮台真司という人の言葉の中ではあまり目立たなかった「市場/国家から、共同体(コミュニティ)へ」というようなワードが、しかも「伊達直人=贈与」を引き合いに出しながら書かれていて、完全に震災以降に考えるべきことに沿う思考が溢れていることに(タイムリーすぎて)震える。そのようなものを読みつつ考えられることから考えよう。