&

  映像研究

連絡としての言葉としての可能性としての(祈りとしての)備忘録

菅直人首相は6日夜、首相官邸で緊急記者会見し、中部電力浜岡原発静岡県御前崎市)について、現在定期点検中の3号機に加え、稼働中の4、5号機を含むすべての原子炉の運転停止を中部電力に要請したことを明らかにした。浜岡原発東海地震の想定震源域に立地しており、地震により重大事故が発生する可能性がある。首相は「国民の安全と安心を考えた。浜岡原発で重大な事故が発生した場合に、日本社会全体に及ぶ甚大な影響を考慮した」と述べ、東京電力福島第1原発事故を踏まえ、大地震に伴う重大事故発生を防ぐため停止要請したとの考えを示した。(毎日jp/2011年5月6日 19時03分)


・上記のような連絡はどのようなメディアよりも早くtwitterのTLを流れる6日の夜は業務の最中であった。そして帰宅して今。詳細は状況の全体はまだわかっていないけれどもともかくこの状況の変化を好ましく思う。色々な出来事が現象が同時に並行して起こり起こり続けながらもどこかひとつが動いて可能性が示されたならばそのことによって状況の全体の見方が変化するということがあるように思う。「だから言ったじゃないか。やっぱり原発は危ないんだよ。」とついつい言いたくなってしまうのを少し待ってみて今は話すよりも誰かが考えていることを聞きたい。例えば今まで「このような大きな福島原発の事故が起こってもきっと原発は動きつづけるのだろうなぁ」「まぁ恐いと思わないこともないけれどもそういう仕組みなのだろうから仕方がないのだろうなぁ」と思っていた人に浜岡原発が運転を停止したことについてどう思うか聞いてみたい。


・問いつめることが目的ではなくてそこから新しい対話が始まるのならばそれが可能性だ。「ああ自分が考えていたような変化が現実に起こることもあるのだな」という頭の少し上の方に電球が灯るような感覚があったならばそれが可能性だ。「なるべく無理そうなことを考えることは面倒だしとにかく仕事が忙しすぎるのでまったく余裕がない」と思っていた人がこの機会に久しぶりにまたニュース・サイトを見てそこから気になってリンクを辿って菊地洋一さんの言葉小出裕章さんの言葉に耳を傾けるようなことがあればそれもきっと可能性だ。選択肢が生まれることが可能性なのだから知ることそれ自体が可能性だ。可能性しかない。可能性はいつも具体的なかたちをしていて尚且つひとりひとりの思考の次の一歩としてプロセスとして示されるのだから誰もがただそれに手を伸ばすのだろう。


そうして明日は渋谷でデモがある。デモに関して色々な人が色々な気持ちから行ったり行かなかったりすることがあるということもわかってきた。自分の場合は「デモ?行くでしょ!普通行くでしょ。」と思っているのだけれどもそうもいかない(思わない)人もいるということが最近少しずつわかってきた。そういう人が忙しい仕事や色々なおつき合いの合間をぬって何かの可能性に出会ってしまうように祈ろうと思う。理想や希望を持っている人がその理想や希望が現実にあり得るかもしれないというその可能性に気がつくことのために祈ろう。可能性の回路のために祈ろう。できれば明日晴れるためにも祈ろうかと思ったけれどもあまり沢山祈ると祈りの質が分散しそうなのでほどほどにしつつ雨が降ったら降ったで山登りのようなカラフルな様相で歩こうと思う。トレッキングのように周りの風景を気にしながら楽しみながら隣の誰かと話をしながら歩こうと思う。