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  映像研究

2010年9月の終わりの物語。

 
・こうして9月も終わろうとしている。「こうして」というのは毎年恒例の「夏に集中的に働いたのだからその代わりに夏休み」ということで、秋雨前線の隙間をぬって、初秋の北アルプスに登ったり、お台場でボートを漕いだり、Tシャツを製作してみたりしているうちに過ぎ去っていこうとしている。過ぎ去っていこうとしているのだけれども、過ぎ去っていきつつもその合間には、いままで余り考えてこなかったようなことを考えてもいる。より正確に言えば「今まではぼやっと考えていたようなことをあまり考えなくなっている」のかもしれない。それはたとえば「日本・現代・××」のようなことで、そのようなことを考えなくなったのは、自分の最近の傾向であるのか、それともそのような(「日本・現代・××」的な)ものがやや面白みを失っているのか、そこらへんどうなのかと思うけれども、そもそもその「面白い」ということ自体がどうなのか(「面白い」はおもしろいのか?)という問題設定もあるような気がしている今日この頃。同様に「新しい」はおもしろいのか?ということも考えます。



・ちょっと前に友人にお借りしたDVDBOX『ふぞろいの林檎たち』10話を一気に観賞したりもした最近。27年前の僕ら、僕らなのか「あの人たち」なのか、ともかく異常にがんばっていた。それはそんなドラマを見たならば「いとしのエリー」の意味だって変わってくるだろう。トレンディー前夜であるところの、大袈裟に言えばもう「時代劇」でもある。今のこの国のこの社会とは色々なことが違っているドラマ。携帯電話がないことの圧倒的な違いはコミュニケーションのインフラの違い。家で電話を待っているとか、突然訪ねていくとかが人と会う単位なのだったりする再発見。だからわぁっと知り合いが大勢集まったりするようなことは非常にまれで最終回にようやく実現したりする。そこらへん、あの当時に20代を過ごすのは大変だなという印象がありつつ、しかしそういう時代性とは関係なく今の自分が見てもなかなか胸を痛めてしまう場面も多くあったのだった。つまり面白かった。



・少し前に博報堂から出ている雑誌『広告』を買ってみたのだった。リニューアル(したよね?)後あたりからは自分がまったく「広告なるもの」と関係ない環境にいたこともあり、あるいはまた表紙の写真とかのかんじとかがあざといな〜という印象もあり購入していなかったのだけれども、今回の「新しい価値観をもつ若者たち」というど真ん中なコピーライト、そして表紙の(正確には裏表紙の)イラストのメンズがレギンスを着用していたことなどから、「何か俺に用ですか?」的な直感のもとに購入。今や自分がその「若者」に該当するのか微妙なところではありますが、「過剰な消費や拡大を目指さない、サスティナブル消費の若者たち」とか言われると「それはそうだろう」と思う、妙に納得の内容。しかし「独り占めしない」とか「所有欲ない」とかを驚くべき(?)ことのようにトピックスにされても、それはもうかなり前からそうだったのだったとしか思わないほどに、気がつけば自分の周りは実にトレンディーなのだった。もしもそのような場所に「ドラマ」「物語」が生まれるとしたらどのようなものになるのか、とかもふと考える。よく知らないけど(観ていないので)『モテキ』とかなのでしょうか?(本当に情報がない)twitterドラマ、とかでもないような気がします。



・完全に主観ですけれども先週くらいにtwitterのタイムライン上に風が通り抜けたような気がした、というこれはスピリチュアル発言ではありません。このメディアは一定の大きさには膨らんだ、もうこれ以上のテンションは生まれないのではないかという予感のようなもの。あとは緩やかにインフラとして使われるくらいになるのではないかという感覚。オンラインで使う各種サーヴィスをちょこちょこ使っていると、そういう瞬間が訪れることがある。これもまたトレンディーな感覚。その感覚を感じたという備忘録。