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  映像研究

大きな流れとして、好ましく思わないこと。

 
・空前のアウトドア・ブームは今どうなっているのかなぁとここしばらく考えている。自分を例に挙げてみたならば、この数年雑誌などのメディアで(テレビは見ないのでわからない)「山登り」「トレッキング」「高尾山」などがたびたび取り上げられるのと時を同じくして、2007年秋に山部(マウンテン・ミーチング)を結成。「次はどこに登る?」が合い言葉になりメンバーも増える。普段の衣料品は以前にも増して機能性を重視したものになる。2008年夏には「山に近い」という理由もあったりなかったりで高尾に引っ越す。テントやら大きなザックやらも次々に購入する。スキーをしたり焚き火をしたり餅つきをしたりなど、親睦を深めつつ各種アウトドア・アクティヴィティに勤しむ。そして2009年には山部メンバー夫妻も高尾に引っ越してきて、ある種のコミュニティですらある今日この頃。つまりそれは自分もそのような「ブーム」とは無関係ではないどころか、おおいに関係があるということを認識した上で考えること。



・おおいに関係があると認識した上で、しかし今、次々に新しいアウトドアふうの雑誌が創刊されたり、掲載されている人は大概「半ズボンにタイツ」だったり、セレクト・ショップにもアウトドア・ブランドを意識したようなデザインの洋服や鞄が並んでいたり(これは去年あたりがピークかも)するのを見ていると、何とも言い様のない気持ちになってきて仕方がない。いつも考えているのは「あらゆる人が出来る限り山に登るべきだ」ということで、それは自分のテーマであり、誰か他の人へのへのメッセージでもあり、なんか漠然とした願いとか祈りのようなものでもあるのだから、別にそれは「スポーツとしての登山」をおススメしているわけではない。サーフィンにピンときた人はサーフィンをしてもらいたいと思う。だから「山登り行こうよ!」と誘ったのに「とりあえず靴を買います」と言われてしまうのは、何だか寂しいというか、メッセージをうまく伝えられていないのだなぁと思う。もちろん場所によってはちゃんとした靴を履いていないと危ないのですけれども、基本的には今持っている、一番履き慣れたスニーカーで全然構わないのですよ。



・次々に新しいものを消費することから撤退するひとつの態度のようなものとして「山」というコンセプトを掲げてみるということ。



・物を選ぶ、その基準を上げ続けた結果として、本当に自分に必要な物はごく少ない物で良いのではないかと思ったのだった。いろいろな情報を知った上で、しかしそのいろいろな情報を出来るだけ冷静に選別した結果として「自分にとって」、本当に「質の高い」生活とはどのようなものなのかを知りたかったのだった。そしてたとえば具体的に自分にとって「最低限必要な衣食住」のようなものがあるのだとしたら、それはどんな大きさでどんな形態なのだろうということを知りたくて、それを知るひとつの、最初の方法として山に行ってみたのだった。だから「山に登る」ということはレジャーではなくて、「生活する」ことの練習で、それは普段の生活と繋がっているのだし、あるいはまた、生活することのシンプルなかたちを体感する、そしてそれを一緒に登る人たちと分かち合うということにおいて、山に登るということは多くの先人たちと同じように発見した、自分にとっての「活動」と呼ぶべきものなのだった。



・「自分にとって質の高い生活とは何か?」を知ろうとするのは、それを知ることができれば本当に自分が表現するべきことがわかるかもしれないと思ったからだ。その方法が正しいのかどうかはわからないけれども、それがわかるまでは、あるいはその必要性がないと思うまでは、今やっている「練習」を続けるしかないのだと思う。



・と、いうようなことを考えながらも、もちろんそのような生活の中で必要な物は買うし、それが山登りの道具であるならばちょっとしたブランドに対する気持ちみたいなものはあるのだから、「せっかく買うのならば多少高くてもカナダのあのブランドの物が良い」とかそういうことはあるのです。そしてそういう「ちょっとしたブランドに対する気持ち」みたいなものが集まって、集まったものがマス・メディアによって増幅された結果として「アウトドア・ブーム」みたいなことになるのだということはよくわかっているつもりなのだけども……さて、一体自分は何に対して拘っているのだろう?



・テレビを見ない、新聞も読んでいない生活でも、たとえば中央線の車両についているモニタとかで新しいニュースは見る。だから「沖縄の基地のこと」が問題になっていることは知っていて、ずっともやもやしていたのだった。政治家には全然興味がないけれども、それでも経済とか法律とか、経済によって生活がどう変わるかとか、法律によって人間がマイナー・チェンジさせられるのかどうかとか、そういうことにはそこそこに興味があるつもりだったのだから、一応は日々何かを考えているつもりだったけれども、去年の夏の選挙以降の自分の気持ちとして、「とりあえず『やる』って言ってる人たちがいるから、その人たちがどんなことを『やる』のか見てみよう」というくらいにしか考えていなかったように思う。そんなこと言ったらずっとそうだったとも言えるのですけれども。そうしてそれは「大きな流れでは間違っていないんじゃないか」という前提に立っていたということかもしれない。



・山登りと政局は、かなり全然関係がないのだけれども、それを今自分が少し似たような構図で考えているのはその「大きな流れ」という考え方について考えているからで、自分がどういう「大きな流れ」を前提としていたかを自分で意識したときに、もしもその流れを好ましく思わなかったならば、もっと細かいものの動き「小さな流れ」を見ようとしなくてはいけないということ。複雑で不規則であっちこっちに散乱する流れ。「はい/いいえ」で判断を迫られているときは別として(そして本当はそんな状況はないはずだけれども)、人は常に「小さな流れ」に身を置いているはずなのだから、そこから考えることはできる。そのためには「何は絶対にするべきでないと考えるか」をはっきりとさせることが必要なのかもしれない。



・これはつまり少し前に備忘録した「おもしろい」を基準とした判断から、ある種の倫理に基づいた判断へ、という問題に関わってくると同時に、人と人とが協力して何かをすることの難しさと、どうしたらそのことを少しでも理解して、何かを始めることができるかという問題についてでもある。