&

  映像研究

夏の終わりの山・境界の部分・出来事・尾根のような事柄についてのノ

 
・8ヶ月ぶりに山登りに出かける。8ヶ月とは去年の12月30-31日のことで、だからこれは今年初めての山登りだし、もちろん3月以降初めての山登りでもあったのだけれども、それほど間が空いてしまうと勘が鈍るというか、勘が無くなっているというか、そもそも自分はどういった物をザックに詰めて山登りをしていたのだっけ?と思い出すことから始めるような不思議な感覚があった。テントや寝袋をザックに詰める。詰めるときのその詰め方に、自分が山で「どういう場面でどういう物をどういう順番で必要としていたのか」というささやかな経験のようなものが含まれていることも思い出す。アルミのコッヘルとチタンのコッヘルをそれぞれどういう状況で取り出すのかを想像してみると、それを置くような山小屋の前の木で作られたテーブルの少し露に濡れた感触を思い出したりもする。



・そしてしかし朝になって車に乗って出かけたならばそういう記憶はすべて忘れていつも新しい山だ。1日目は中央道で穂高まで行って駐車場に車を停めて中房温泉から登る。日曜日の下山客のファッションに登山ブームの分水嶺を感じつつ燕岳へ。燕山荘前にテント泊。豚汁。2日目はいわゆるひとつの「表銀座縦走路」を南下しつつ、大天井(おてんしょう)を通過しつつ、常念岳のふもとの常念小屋でテント泊。カレーライス。3日目は御来光にはやや出遅れつつも朝の早い時間に常念岳登頂。テントをたたんでザックに詰めたならば一ノ沢へ下る。タクシーにて穂高温泉の駐車場まで戻って入浴。道の駅を散策。牧場でソフトクリーム。北アルプスの帰りは大抵松本の「新三よし」にて馬刺を食す。24時に東京着。



・歩いているときに見ているもの、気にかかったことはいつも同じような、違っているような事柄で、今回は尾根を歩いているのだと特に思った。南北に伸びる尾根を、東側から登って、南に歩いて、また東側に下る。地図を見ながら歩いていると、山の高くなっていくその標高の変化とか、太陽の位置によって変わる光と影の様子とか、水の流れと水の音の響き方とかが、ずっと続いている出来事として感じられてそれが良かった。山を歩くことがとても複雑な出来事としてあることを思い出す。



・そして出来事は、歩きながら近づいて、気がつけばどこかのポイントを通り過ぎていくような面白さがある。遠くの風景として見ているときには尾根は、それこそ馬の背中のような、という以上に、とても細い、光と影が交わるの点の繋がりとしてすっと一本現れるのだけれども、そこを歩いているときには、幅を持った場所として自分を囲んでいる。その事が面白くて、見たり、写真に撮ったりしていた。あるいはまた、雲は暖められると上空に昇ってくるのだなぁ、ということが本当に自分の周りの出来事としてわかることも面白い。尾根を境にして東側には雲だか霧だか水蒸気だかがたっぷりとあって、朝にはそれが雲海になり、昼にはそれが2500mから3000mの地点まで昇ってきて尾根を渡る。視界を柔らかく遮る。それでまた朝起きると空には雲がなくなっている。



・歩きながら近づいて、そしてふと見れば石がある。手に取るような石が、登るような岩がある。それがまた面白い。ひとつの石にも光と影の境界があって、それが尾根の道の真ん中にころっと転がっていたりするならば思わず写真に撮ってしまう。あるいはまたその石が集まって尾根の表面を作り出しているような場所で立ち止まって周りを見回してみたならば「おお」と思ってまた写真に撮ってしまう。尾根に夢中だ。鉱物にも夢中だ。そういう風景にある植物ももちろん良い。そのような場所を歩き、歩くことを出来事として感じて、変化を追いかけているうちに変化について考えたりして、あっという間に終わっている。風景を前にして新しいことを考えたという、考えなかったことを考えたら新しい風景が見えたという、これはだからノート。